第23回で少し触れましたが、江戸期以来の教育機関が多かった東京は他府県と異なり、小学校の数では私立学校が公立学校を大幅に上回っていました。これは、旧来の教育機関(私塾や寺子屋など)を私立学校としてスタートさせ、徐々に公立学校に改めればいいと方針を定めたからでもあります。明治10年の東京府下の小学校数は、公立142校に対し私立684校と、圧倒的に私立が多かったのです(『東京府史』行政編第5巻)。しかし、双六に取り上げられた学校のほとんどは公立校で、私立校は明治17年に官立校となった「華族学校(現・学習院)」以外では、「跡見学校」と「青海学校」の2校のみです。つまり、「華族学校」は別格として、この2校は、絵師によって680校以上もの中から選ばれた学校とも言えます。
「跡見学校」は双六に紹介された43校の中でただ一校、「女教師花蹊」と詞書が示すように創設者その人を紹介しています。創設者の跡見花蹊(あとみ・かけい)は、宮中で御前揮毫(陛下の面前で書や絵の筆をふるうこと)をし、女官たちには漢詩や書画を教えるなど、以前から世に知れた才媛でした。そんな女性が明治8年猿楽町(現・千代田区西神田)に開校した女学校ですから、世間からも大いに注目されていたのです。絵図では当時30代後半の花蹊女史が、袴着姿で教鞭を手に持ち、実に堂々と椅子に腰かけた姿で描かれています。
明治11年に行われた試験の様子は、「跡見女学校の卒業式」の見出しで読売新聞に報道もされました。
「中猿楽町の跡見女学校の生徒試験が今月七日に有ましたが,流石に縉紳(しんしん=官位の高い人)華族のお姫様がたゆえ、其奇麗で有ったこと、何れも富士の額に雪をいただき、柳の眉に桜いろ、小さいお子は野辺にさく董の花の可愛らしく、百花園中に七宝を連ねたよりも美事にて殊に上品・・」(明治11年4月11日。『新聞集成明治編年史』)
美しさの比喩が過剰なまでですが、名にし負うお嬢様学校であったことがよくうかがわれます。記事では、このあと講堂で行われた「生徒試験」について記していますが、試験というより進級のための発表会と捉えた方が実際に近いようです。それによると、三条家や三条西家、綾小路家など上流階級の6歳から14歳までの息女による講義が順になされたとあります。三条家の息女とは、三条実美の次女で、後に閑院宮妃殿下となった智恵子のこと。講義内容は、『日本外史』や『春秋左氏伝』といった国史や中国の経書などについてであり、7歳の智恵子は『日本外史』のうちの「後醍醐天皇笠置夢兆の篇」を講じたとのことです。また、楼上には習字や山水画、人物画など生徒作品60幅がはりだされたとも伝えています。
『跡見女学校五十年史』によると、寄宿舎のことを「お塾」といい、花蹊のことは寺子屋風に「お師匠さん」と呼んでいたとあります。ユニークなのは就寝前に「運動踊」という舞い踊りを行う慣習があったこと。「千代のはじめの花の影 学びの余課になでしこの 花の手どりを所望々々」と始まり、寮生一同、今様風な歌詞に合わせ踊るのですが、これは「もと禁中で女官達の行った一種の踊の手を換骨奪胎したもので、頗(すこぶ)る優美で高尚なもの」だったそうです。教育方針はこのようにつとめて御所風を尊重したものでした。
ただしこういった華やかなお嬢様学校はあくまで例外で、明治期の私立学校は寺子屋や私塾からの転換であったり、生活の糧を失った士族階級が学校経営に乗り出したものであったりした例が多かったのです。
樋口一葉が通ったことで有名な「青海学校」は、明治7年上野元黒門町(現・台東区上野)の不忍池近くに開校しました。
創設者の山本対山は50歳の士族で、東京府知事に提出した「私立小学設立願」によれば、対山は長らく漢学と筆道を学び、21年間生徒教授をしていたとあります。そして、明治6年に半年間だけ東京府講習所にて新しい教授法である小学教則の講習を受けた旨を申し出ています。助教として申請した21歳の甥と17歳の娘の2人も同様に講習を受けていますが、この2人の履歴には、5か月間だけですが、洋算修業をしていたことも記されています。新たに私立学校の認可を受けるには、近代的な教授法の講習を受けることが必要だったのです。
さて、「青海学校」で面白いのが生徒のファッション。この時代ならではの和洋折衷スタイルが目を引きますが、そのお話はまた次の回で。
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