「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第17回 あたらしい工場の構想

筆者:
2019年3月20日

大正11年(1922)にアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)からベントン彫刻機を買い入れる契約をむすんだ亀井寅雄は、現地で助手をつとめていた今井直一にあとを託し、ひとあしはやく3月に日本に帰国した。あらたに彫刻機をむかえるにあたり、以前から構想していた新工場の建設計画をすすめるためだった。

 

三省堂は、明治36年(1906)に神田の三崎河岸に建設した表2階・裏3階の工場をもっていた。大正元年(1912)に一度は経営破綻をしたが、大正8年(1919)以降は順調に業績を回復し、発展の見込みもついてきていた。敷地150数坪の三崎河岸の工場は手ぜまになりつつあったが、土地に拡張の余地がない。このため寅雄は、かねてから〈別に敷地を得て立派な工場を作らねばならぬ運命であった〉とかんがえていた。[注1]

 

日本に戻った寅雄は、工場の拡張を計画した。そして数カ月遅れでアメリカから帰国した今井直一が大正11年(1922)8月に三省堂に入社すると、彼に相談しながら敷地を探し歩いた。

 

当時工場地帯というのが設定されていて、大東京では本所、深川一帯、並に京浜の品川から六郷川に至る線路の東側だけに限られていた。そこで専ら京浜地帯に適当な地所を物色して、遂に蒲田工場五千百坪を手に入れ、そこに新しい工場を作る基礎ができた。[注2]

蒲田工場は、東京都大田区仲六郷1-52にあった。用地買収時には荏原郡六郷村大字八幡塚字浮面耕地と呼ばれ、しょうぶ園などもある閑静な土地だった。蒲田もまだ蒲田村といわれた時代だ。

 

この場所をえらんだのは、省線(現在のJR線)沿線としてはもっとも海から遠く、潮風の影響がすくないこと、また、省線蒲田駅から徒歩約12、3分の距離にあり、京浜国道にちかいがすこし離れているので砂ぼこりの害を受けないということ、さらに、工場用地のすぐちかくに駅が新設されるという話があった、などの理由からだった。[注3]

 

そしてもうひとつ、この土地を寅雄が気に入ったおおきな理由がある。大正10~11年(1921~22)にかけて欧米視察に行ったとき、寅雄はニューヨークでおおくの印刷工場を視察していた。なかでも彼につよい印象をあたえたのが、ロングアイランドのガーデンシティにあるダブルデー・ページという会社だった。

 

これはすばらしく立派な自家工場を持つ出版会社で、田園都市に工場があるとは不思議に思うが、実際どう見ても工場とは思えない工場なのである。従業員はバラのアーチのつづく小路を通り、美しい噴水と、イタリヤから移植したサイプレスの並木の中の白亜の工場にかよう。広い構内で、一見不便のようではあるが、従業員の移動を防ぎ、労働運動の影響も少なく、皆生活を楽しんでいるということであった。もとよりダブルデー・ページとは環境も規模も違うことではあるが、市中のたてこんだ、いわゆる町工場とは違った工場をつくりたいものと考えていたので、都心からは約一時間の距離があるにもかかわらず(筆者注:寅雄は)この地に満足した。しかし後年あのいんしんをきわめた工業地帯になろうとは誰しも想像できなかった。[注4]

大正11年(1922)12月、暮れもおしせまった時期。ようやく、三省堂の新工場のための用地買収がおわった。

ガリ版刷りの『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』より、亀井寅雄「三省堂の印刷工場」、今井直一「蒲田工場の建設」のタイトル部分を抜粋

ガリ版刷りの『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』より、亀井寅雄「三省堂の印刷工場」、今井直一「蒲田工場の建設」のタイトル部分を抜粋

[注]

  1. 亀井寅雄「三省堂の印刷工場」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.4
  2. 亀井寅雄「三省堂の印刷工場」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.7
  3. 今井直一「蒲田工場の建設」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.10
  4. 同上

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」(いずれも、執筆は1950)
  • 今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部、1949)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。