見て楽しい英語辞書の話です。
幕末から明治にかけて、日本に空前の英語旋風が吹き荒れます。明治初年の新聞は銀座4丁目松葉軒でABC菓子の販売、神田旅籠町(はたごちょう)岡野谷で茶呑稽古英字煎餅(ちゃのみげいこえいじせんべい)が販売されたことを報じています。お茶請けにもアルファベットが侵入するフィーバーぶりです。
何しろペリーによる砲丸外交で無理に開国を迫られたわけですから、国として諸外国との交渉に必要な会話力、西洋文明を知るために必要な洋書の翻訳能力を身に着けられるか否かは、死活問題です。幕府はその対策に安政3年蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を開設し、封建的な幕府としては珍しく、能力のある人物であれば地位や身分に関係なく人材を登用しました。そんな英語熱の時代の空気を開国後の民間人も共有していたことを感じさせる面白い英語辞書が、明治5年発行の『英国単語図解』です。
蕃書調所から開成所と名を変えた幕府の洋学研究所は、慶応2年に『英吉利単語篇』(以下、単語篇)という英単語を1490語羅列しただけの学習書を出版します。その単語篇の図説対訳本として出版されたのが、この『英国単語図解』(以下、図解)です。
図解では単語篇の前半740語を収録しており、第一篇の文具や学校に関する単語30語、第二篇の天候や地形など自然界の現象100語、第三篇の陸海軍の名称、人間関係の呼称、曜日、季節など210語、第四篇の人体、病名、建築物、日用品の名称など400語の4部構成になっています。
これらの英単語は底本の存在が研究者により確認されており、第一篇がオランダ人ファン・デル・パイルの『英文典初歩』、第二篇から第四篇までがドイツで刊行された英独仏伊語の対訳単語集『Traveller’s Manual』から抜き出されたものだということが分かっています。
誌面は1ページを均等に10分割し、1コマに「master. マストル 師匠 シシヤウ」のように英単語とカタカナの発音表記、それに訳語とその読みを書いていますが、中には「post-office. ポストヲッフィス 飛脚館 セイフノヒキャクヤ」のような意訳も見受けられます。
この辞書のユニークな点は、なんといっても挿絵にあります。
人物が旧態依然とした丁髷(ちょんまげ)の男性と日本髷(にほんまげ)の女性で描かれ、江戸と英単語というミスマッチな取り合わせがかえって新鮮に感じられます。表情も思わずクスッとしてしまうようなものが多く、「Laughing. ラァヒング 笑 ワラヒ」などは、“もらい泣き” ならぬ “もらい笑い” をしてしまいそうです。舶来ものの時計や椅子など見たことないものも、絵があることで分かりやすくなりますし、ハグキ、ウワアゴ、メノタマなど人体のパーツを表す英単語の挿絵も、インパクトが半端ではありません。
江戸期の往来物(教科書)を見ていても感じますが、難しいものも絵入りにすることで誰もが楽しみながら学べる工夫をする、そんな日本人の持つセンスと知恵が現代のアニメ文化を築いたように思います。
この本の著者、市川央坡は、文久元年の遣欧使節団の一員だった市川渡(清流)と同一人物といわれます。渡は旅行中の日記を元に『尾蠅(びよう)欧行漫録』という見聞録を残していますが、序文には「私は蟹行(横文字)の書物を学んだこともない」(『幕末欧州見聞録:尾蠅欧行漫録』新人物往来社)と書いています。ぶっつけ本番の海外旅行で自らが苦労したであろう外国語を楽しく学べる辞書があれば、との思いがこの本の誕生につながったのではないでしょうか。
実は『英吉利単語篇』と『英国単語図解』の間には、中間的立場の辞書がもう一冊存在します。図解の版心書名(折目に書かれたタイトル)が題箋(表紙のタイトル)と違い、『対訳名物図編』とあるところから調べてみましたら、これは図解と同じ体裁ながら絵の部分が空白の辞書でした。慶応3年に市川が「彼ニノミ有テ我ニ無キ物」つまり外国製で知悉(ちしつ)していないものが少なからずあるので、挿絵の部分を空白のままで上梓(じょうし)したと述べています。この、絵の抜けた辞書を経て図解完成までに5年の歳月が費やされたわけで、市川の執念を感じさせます。