開国間もない日本の子どもたちは、世界の「形」をどのようにして学んだのでしょうか。
黒船来航は、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四はいで夜もねむれず」(「上喜撰」は宇治茶の品名の上喜撰と蒸気船の掛詞)と狂歌に詠まれるほど庶民に衝撃を与えましたが、一方で、これをきっかけに幕末の寺子屋師匠の中には世界や地球に興味を持つ人が現われました。茨城県土浦の寺子屋師匠、沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん)[安永4年~安政3年]もその1人、生来多芸多才な人物で、竹ひごで作った骨組みに木版刷り世界図を貼り合わせ、折りたたみ可能な傘式地球儀を考案しました。安政2年には百数十個の地球儀を世に出したところ好評で、自らもその地球儀を使って門弟たちに地理学や天文学を教えたそうです。
当館所蔵の精耕堂(第2回で紹介した栃木県真岡市の寺子屋)関係資料の中にも、「地球萬国山海輿地(よち)全図説」という幕末に流布した一枚刷り世界地図が残されておりますし、そこで使用された往来物『永代年代記大成』(弘化3年)の巻頭には「萬国山海地球輿地全図」という名の世界地図が描かれており、日本の外の世界を知る地理教材として扱われたと考えられます。この頃になると為政者ばかりでなく、普通の人々もまた、世界の中の日本を意識するようになっていたのでしょう。
維新後は、先駆的な開明学者である福澤諭吉が世界各地の風俗や歴史を七五調であらわした『世界国盡(せかいくにづくし)』(明治2年)が人気を博しました。「世界は広し 萬国はおおしといへど 大凡(おおよそ)五に分けし名目は 亜細亜阿非利加欧羅巴 北と南の亜米利加に 堺かきりて五大洲・・」という書き出しは、世界を俯瞰(ふかん)した内容の面白さと暗誦した時のテンポの良さで、寝言にも言うぐらい口ずさまれていたそうです(『名ごりの夢』の中で語られた著者今泉みねの思い出)。
その口絵には、それまでの卵形の世界地図とは異なり、円形の東と西の半世界図が描かれており、日本国は東の片隅に置かれ世界の広さが強調されています(「萬国山海地球輿地全図」のような卵形の地図はマテオ・リッチが17世紀初めに作製した「坤輿(こんよ)万国全図」をルーツとしています)。
また、諭吉が著した日本最初の科学入門書ともいうべき『訓蒙窮理図解(くんもうきゅうりずかい)』(明治元年)では地球儀や地球の絵を描いて引力や昼夜、四季が生じる原理を分かりやすく説明しています。
この『世界国盡』と『訓蒙窮理図解』の2冊は明治5年文部省が小学校教科書として公示した中に含まれ、次回ご紹介する新しい学校教育の中身にも少なからず影響を与えたと考えられます。
(次回へつづく)