(第5回からつづく)
今月24日に『新しい常用漢字と人名用漢字』が発売されます。出版記念と言っては何ですが、第1章「常用漢字と人名用漢字の歴史」の内容を要約したり、あるいはちょっと脱線してみたりしながら、人名用漢字の源流を全6回で追ってみたいと思います。
戸籍法第50条改正案の顛末
人名用漢字別表の内閣告示に際しても、衆議院法務委員会は、まだ戸籍法第50条改正案に固執していました。そして、昭和26年6月5日の衆議院議院運営委員会で反撃に出ます。憲法第59条により、参議院送付後60日間が過ぎれば、衆議院で再可決をおこなうことで、法律を通過させることができます。いくら参議院が審議未了で廃案を狙っていたとしても、衆議院が3分の2以上の賛成で再可決すれば、戸籍法第50条改正案は成立してしまうのです。戸籍法第50条が改正されてしまえば、当用漢字表も人名用漢字別表も関係なく、子供の名づけにどんな漢字でも使えるようになってしまいます。
第五十条 子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。 常用平易な文字の範囲は、命令でこれを定める。 市町村長は、出生の届出において子の名に前項の範囲外の文字を用いてある場合には、届出人に対してその旨を注意することができる。但し、届出人がこれに従わなくともその届出を受理しなければならない。
議院運営委員会の決定に驚いた文部事務次官の日高第四郎は、即座に、官房副長官で元国語審議会委員の剱木亨弘に泣きつきました。剱木は、昭和26年6月5日のその日のことを、のちにこう回想しています(『西日本新聞』昭和61年5月14日朝刊5頁)。
日高次官の話を聞いた私は「いまとなってはどうしようもない」とは思ったが、文部省を見殺しにもできない。最後の努力をしてみようと、自由党国会対策委員長の小沢佐重喜先生のところへ走った。衆院本会議が開会される直前だった。
「先生、戸籍法一部改正案の上程を何とか取りやめて下さい。これが成立すると文部省の国語政策は根本から崩れます。当用漢字制度の危機です」
「君、もうだめだ、全会一致で可決することに決まっている」
と、とりつくしまもない。私は、とっさに「剱木亨弘」の名刺を差し出して「私の名前をお読みいただけますか。読めたら引きさがります」とつけ加えた。
「ケンノキ、は分かる」「いや下の名前です」「分からんなあ」―ここまで問答が進んだところで、私は開き直った。
「私の父がつけた名前ですが、今日まで一度も正確に読んでもらったことがありません。改正案は、子供の名前をつけるのは親の基本的人権だという理由ですが、子供の人権はだれが守ってくれるのですか。人が読めもしない名前を親の勝手でつけていいものでしょうか。子供の人権こそ国が守ってやるべきです。私の名前は“としひろ”です。亨(とおる)をもじって“とし”と読むのです」と言って、可決阻止をお願いした。
小沢先生が各党の了解をとり、法案の本会議上程中止が決まった時は、もう開会のベルが鳴っていた。危機一髪。「亨弘」の名刺が当用漢字を守った。
戸籍法第50条改正案は、審議未了で廃案となりました。出生届に書ける漢字は、当用漢字表と人名用漢字別表に限定されたままとなりました。子供の名づけに対する漢字制限は、こうして死守されたのです。
それから60年、時代の波に翻弄されて、人名用漢字はどんどん変化していきました。人名用漢字はどのような原因でどう変化していったのか。そして人名用漢字は日本の社会にどういう影響を及ぼしていったのか。それらについては、ぜひ『新しい常用漢字と人名用漢字』を御一読ください。