新字の「穣」は人名用漢字なので、子供の名づけに使うことができます。旧字の「穰」も人名用漢字なので、やはり子供の名づけに使うことができます。つまり、「穣」も「穰」も出生届に書いてOK。でも、「穣」と「穰」の両方が子供の名づけに使えるようになったのには、微妙な歴史が背景にあるのです。
当用漢字表だけでは子供の名づけに足りない、という国民の声を受けて、昭和26年5月14日、国語審議会は人名漢字に関する建議を発表しました。この建議は、子供の名づけに使える漢字として新たに92字を追加すべきだ、というもので、この92字の中に新字の「穣」も含まれていました。翌週25日、この92字は人名用漢字別表として内閣告示され、新字の「穣」が子供の名づけに使えるようになりました。
しかし、人名用漢字別表の効力は、沖縄には及んでいませんでした。当時、沖縄はアメリカ軍の軍政下にあり、戸籍制度そのものが崩壊してしまっていたのです。昭和29年3月1日、琉球政府は戸籍整備法を施行し、失われた沖縄県戸籍の再製に乗り出しました。琉球政府は昭和32年1月1日に戸籍法を施行し、さらに昭和32年2月22日には人名用漢字表を告示しました。この人名用漢字表は92字を収録していましたが、本土の人名用漢字別表とは違うものでした。新字の「穣」ではなく、旧字の「穰」を収録していたのです。沖縄では、旧字の「穰」が子供の名づけに使えるようになりました。
本土においては、しかし、旧字の「穰」は子供の名づけに使えない、と思われていました。これに対し、昭和36年12月15日、当時の栃木県今市市の戸籍事務担当者は、今市市長経由で宇都宮地方法務局長に対し、旧字の「穰」を名に含む出生届を受理してよいかどうか、照会をおこないました。法務省民事局長の回答(昭和37年1月20日)は、旧字の「穰」も受理してさしつかえないが、なるべく新字の「穣」で出生届を提出させるよう指導してほしい、というものでした。
昭和47年5月15日、沖縄は日本に復帰しました。同時に琉球政府の人名用漢字表は無効となり、本土の人名用漢字別表が適用されることになりました。沖縄でも、新字の「穣」が子供の名づけに使えるようになったのです。さらに、昭和56年5月14日の民事行政審議会答申では、新字の「穣」も旧字の「穰」も、どちらも子供の名づけに使えるべきだ、ということになっていました。法務省民事局長の回答を踏襲する形になっていたのです。昭和56年10月1日に戸籍法施行規則が改正され、新字の「穣」に加え、旧字の「穰」も人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、「穣」も「穰」も出生届に書いてOKなのです。