「百学連環」を読む

第8回 「百學連環」とはなにか?

筆者:
2011年5月27日

今回から、いよいよ「百学連環」の本文を見てゆきます。

実を言うと、本稿で底本としている「西周全集」第4巻には、「総論」に該当する文書が二つ掲載されています。両者を区別するために編者の大久保利謙氏に倣って「甲本」「乙本」と呼ぶことにしましょう。編者も指摘しているのですが、両者を比べると、乙本は甲本に修訂を加えたもののようで、内容はほとんど同じなのですが、細部で言葉遣いや表現が違っています。ここでは、基本的に甲本を基にしながら、必要に応じて乙本がどうなっているかを見てゆくことにしたいと思います。

また、「百学連環」は、もともと筆で記された文書ですが、全集に収録されたものは活字にしてあります。そこでは、いわゆる「正字体」が用いられています。この連載では、以後「百学連環」から引用する場合、できるだけ活字に合わせたいと思います。ただし、場合によってはフォントの関係などで「新字体」を使う場合もありますことを、ご了承ください(本来、正字体で印字されているところを新字体で引用している箇所は、念のため文字にをつけておくことにします)。

では、「百学連環」の本文に入ってゆきます。表紙を繰ると、最初のページには、このようなタイトルが現れます。

百學連環 Encyclopedia
第一 總論 Introduction

 「百學連環」にEncyclopediaという英語が併置されていることに注意しましょう。これからすぐに見るように、実は「百學連環」とは、Encyclopediaに対応する訳語として、西先生が編み出した語なのです。そのことがタイトルにも示されています。

また、「總論」がIntroductionに対応しています。introductionは現在でも「概論」「序説」といった訳語が当てられる語ですが、「總論」と言えば全体を俯瞰するという気分が少し前に出るでしょうか。

本文はこのように始まります。

英國の Encyclopedia なる語の源は、希臘のΕνκυκλιος παιδειαなる語より來りて、其辭義は童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり。故に今之を譯して百學連環と額す。

(「百學連環」第1段落第1-2文)

 

冒頭から、Encyclopediaという英語とその語源を説き、その意味を述べています。単刀直入で話がはやいとはこのことですね。この文章、現代の日本語の感覚でもそのまま読めると思いますが、念のために当世風に書き直してみましょう。

英語の Encyclopedia という語は、古典ギリシア語のΕνκυκλιος παιδεια〔エンキュクリオス・パイデイア〕に由来しており、それは「子どもを輪の中に入れて教育する」という意味である。そこで、これを「百学連環」と訳して掲げることにしよう。

なんだかとても面白いことが書かれていますね。「子どもを輪の中に入れて」とは、どういうことなのか気になります。しかし、意味内容の検討に入る前に、まずは大きなことから見ておきましょう。西先生は、この第一文で、しょっぱなから早くも

Ενκυκλιος παιδεια=Encyclopedia=百學連環

というふうに、英語を媒介として、古典ギリシア語と現代(当時)日本語──しかも元来は中国の文字である漢語──が、言葉のうえでつながっていることを示しているのです。

少しイメージを広げて、2000年以上の時間の流れと、これらの言語が使われる地域の地図上での距離とを思い浮かべてみましょう。そこには愕然とするほどの大きな隔たりがありはしないでしょうか。翻訳という営みの驚くべきところは、そうした時間と空間、そして文化や社会の違い、一言で言うなら文脈の違いを超えて、言葉同士をつなげてみせてくれるところです。

しかも、西先生が置かれていた状況は、私たちの状況とはかなり違っています。私たちには、既に先人がこしらえた各言語と日本語の対応を記した辞書がありますが、西先生は、そうした既存のものに頼りきるわけにはいきませんでした(皆無だったわけではないにしろ)。例えばここでそうしているように、Encyclopediaという言葉一つとってみても、自分で訳語を考え出す必要があったのです。

ついでのことではありますが、こうした翻訳語を読むとき、ちょっとそのつもりになると、言葉遣いのトレーニングをすることができます。「もしこの言葉を自分が日本語に訳すとしたら、どうするだろうか」と考えてみるのです。もちろん現在の辞書を引けば、encyclopediaの項目には、「百科事典」や「専門辞典」といった訳語が出ています。しかし、誰かが工夫してくれた訳語を借りるのではなく、自分の知識の範囲でこれを訳すとしたらどうするか、と考えてみるわけです。

そうしてみると、「百學連環」という訳語の凄味のようなものが、じわじわと感じられてきます。西先生は、こともなげに「故に今之を譯して百學連環と額す」と述べていますが、ここには深い洞察と言語操作能力が総動員されています。ですから、その含意について、もう少し立ち止まって考えてみたいと思います。

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=卽(U+537D)

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筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。