前回は、文章は、万民が広く読めるように、漢文ではなく和文で書くべきだという主張がなされました。ここから議論が、その重要な中味である「真理」のほうへと進んでゆきます。
さて眞理を見出すの方略になるへきは文章、器械、設け等種々ありと雖も、其を如何して講究見出すへきかを知らさるへからす。其は玆に新致知學の一法といふあり。
元トは A Method of the New Logic にして、英國の John Stuart Mill なる人の發明せし所なり。其著はす所の書籍は System of Logic とて随分大部なるものなり。是よりして學域大に改革し、終に盛むなるに及へり。
(「百學連環」第36段落23文~第37段落第3文)
一旦ここで区切りましょう。文中の「方略」は、右側に「テダテ」とルビが振られています。訳すとこうなるでしょうか。
さて、真理を見いだすための手立てになるのは、文章、器械、施設など、さまざまなものがある。しかしながら、それをどのようにして講究し、見いだしたらよいかを知らなければならない。ここに「新論理学」という方法がある。もともと〔英語で〕A Method of the New Logic といい、英国のジョン・スチュアート・ミルという人が発明したものだ。彼が著した書物は『論理学体系(System of Logic)』といい、かなりの大著である。これによって学域がおおいに改革され、ついに盛んになったのである。
ここ数回で「真理」というものが徐々に浮上してきました。さまざまな学術の手立てについて説明しながら、西先生は、「真理の発見」こそが目的であることを忘れると空理空論に堕してしまうと注意を促し、その文脈で儒学者に対する批判を展開したのでした。それでは、問題の真理をどのように発見できるのかという話題に転じてゆきます。
そこで西先生が引き合いに出すのは、イギリスの哲学者、J. S. ミル(John Stuart Mill、1806-1873)です。西先生の生没年(1829-1897)を見ると分かるように、二人は同時代人でした。この「百学連環」講義が行われた明治3年の時点で、ミルは存命中です。
また、その『自由論(On Liberty)』が、中村敬太郎(正直)によって『自由之理』として刊行されたのは、明治5年(1872)のことでした(原著は1859年刊行)。自伝とともにいまでも新しい訳が出されて読まれ続けています。
それはさておき、ここで注目されている『論理学体系』は、1843年に刊行された大著です。原題は、A System of Logic, Ratiocinative and Inductive; Being a connected view of the principles of evidence and the methods of scientific investigation と言います。こうした長ったらしい書名は、ヨーロッパの学術書の一種伝統とでもいうべきものでした。
大關將一訳(春秋社、1949)の書名をお借りすれば、『論理學體系 : 論證と歸納 證明の原理と科學研究の方法とに關する一貫せる見解を述ぶ 』となります。
ところで「論理学」と言えば何を連想するでしょうか。おそらく、「数学」の時間に習うベン図や「AならばB」といった論理式、「∀」「∃」のような記号、あるいは「かつ」「または」といった論理積や論理和などが思い出されるのではないでしょうか。もしそのような印象が強すぎてしまうと、ここでなぜ真理を論じるのに論理学が問題になるのか、少々分かりづらいかもしれません。
しかし、ミルの書名にも見えるように、事は「証明の原理」と同時に「科学研究の方法」にも関わっています。現に、同書の中でミルは、論理学をこんなふうに定義しています。
私たちは、論理というものを、真理を追究しようとする人間の理解力の働きぶりを扱う学問(サイエンス)と定義すべきではないか。
(A System of Logic Vol. I, 1843, p.5より訳出)
まさに西先生が問題としている真理の探究に関わって、論理を研究しようという次第です。
ちなみに、ここまで「論理学」という言葉を使ってきましたが、西先生は「致知学」と訳していますね。「知に致る学」というわけで、一つの見識が現れていると思います。論理学のほうは、「理を論ずる学」ということで、これはこれで理に適っているように思えます。
原語のLogicは、例によってギリシア語のλογος(ロゴス)に由来します。また、λογικος(ロギコス)といえば、論理学という意味にもなります。論理学の歴史もヨーロッパにおいては、やはり古典ギリシア時代から続くものでした。ミルの試みは、その旧来の論理学に対する新しい論理学ということで、西先生はこれを「新致知学」と訳したのです。
いま私たちが読んでいるのは「百学連環」の冒頭に置かれた「概論」です。それに続く本論、つまり百学の各々について解説した部分では、「致知学」はどこに位置づけられているかというと、実は「哲学」の下に分類されています。
西先生は、ミルの論理学のどこに可能性を見たのでしょうか。次回に続きます。
*なお、本連載では、古典ギリシア語の単語について、アクセント、気息記号を省略しております。