日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第100回 弥勒について

筆者:
2015年12月6日

紙媒体であれ電子媒体であれ、源義経や織田信長といった歴史上の人物が、少女マンガから抜け出たような美男子に描かれるということは、今では珍しくない。こうした「改ざん」はどのようにして生じるものなのかと、私は想像をたくましくしてしまう。どこかの画伯が「いかん、この顔のままでは萌えん!」と、敢えて史実に目をつぶり、確信犯的に腕をふるわれたものなのか。あるいは今風のイラストレータが「資料とかわかんねーし、こんな感じでイーンジャネ」的に、テキトーにでっち上げたものなのか。いずれにせよ、そこには「こういう言動をなした人物は、こういう風であってほしい~こういう風に違いない」という、我々の倫理観や美意識を組み込んだ人物イメージが反映されていると言えるだろう。

話は変わるが、弥勒(みろく)とは、釈迦(現在の仏陀)が入滅した56億7千万年後の世に現れ、釈迦の次の仏陀になることが約束されている菩薩であるという。日本の広隆寺にある、ほっそりした気品のある弥勒像を見ると、そんなに待たなくても、今すぐ仏陀になっていただいてもいいのではないかと思えてしまうが、中国ではこうした弥勒像は見当たらない。中国にある弥勒像は、でっぷりと肥えたおっさんが膝を崩してニタラーと半裸で笑っている像ばかりである。弥勒の驚くべきキャラ変わりである。

もちろん、これにはちゃんとした説明があるのである。つまり、日本では七福神の一人として知られる布袋(ほてい)が中国では弥勒の化身とされており、でっぷり太ったおっさんの像は、この化身の姿が弥勒として描かれたものらしいのである。

だが、そういう説明は果たして十全な説明になっているのかと、私などは思ってしまう。日中の弥勒像がそれぞれ現在の形に至った歴史的な経緯は、何によるものなのか。「布袋=弥勒の化身」という中国の図式は日本の仏教界でも知られていないはずはないのに、そうした弥勒像が日本でちぃとも広まらなかったのはどういうわけだろうか。日本の弥勒像の、あのほっそりとした顔かたちは、どこの仏師がどのように、布袋様から確信犯的に目を背けて、あるいは単にテキトーに彫り上げられたものなのか。そこには「こういう尊いお方は、こういう風にであってほしい~こういう風に違いない」という我々の人物イメージが反映されていないだろうか。

という風に、まったくの門外漢のくせに、キャラを切り口に、ついには宗教の世界にまで口を出し、仏像のありようを、最近の戦国武将ゲームなどのイラストと一緒くたに扱うという、バチ当たりなことをしているのである。それで仏罰テキメンというやつで、本編にそろえて補遺も連載100回目で終わろうと思っていたのが、終われなくなってしまっているのである。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。