前回は話がつい尾籠な方向に流れてしまった。このあたりで、ちと立て直しをはかり、ことばや文法について述べてみたい。
給湯室を何気なくのぞくと、見慣れぬポットが火にかけられており、ポットの口からさかんに湯気が出ている。この時、ポットを見ながら「あ、お湯が沸いてる」とは言えるが、「あ、お湯が沸いた」とは言えない。
もちろん、ポットのお湯は宇宙誕生時から沸いていたわけではないだろう。少し前の時点では沸いていなかったのが、沸いたのだ。「沸く」という変化が起こったのだ。それは確信できる。そう、沸いたのだ。しかし、「あ、沸いてる」とは言えても、「あ、沸いた」とは言えない。たとえ給湯室に他に誰もおらず、誰にも気兼ねなくひとりごとをつぶやけるとしても、「あ、沸いた」とは言えない。
このように、沸いているお湯を目のあたりにしながら、それを過去の沸いていない状態からの変化として、「沸いた」と「た」で言い切ることは、誰にでもできることではない。多くの場合、それは、お湯が沸いていない状態をごく短時間にせよ実際に見ていた者、つまり、お湯が沸いていない状態からお湯が沸いている状態への変化を体験した者だけの特権的行動である。変化の結果の状態(お湯が沸いている状態)しか見ていない者は、いくら確信しても「沸いた」と言い切ることはできない。以上は、鈴木重幸氏や井上優氏らによって明らかにされてきたことである。
だがその一方で、たとえば小学生は、夏休みの自由研究の成果を報告する場合に「シリウスBは数十万年前に白色矮星になりました。天文学的に言えば、これはごく最近のことです」などと言える。数十万年前の変化など、小学生が実際に見たはずはない。だが、それでも「白色矮星になりました」と、過去の変化を「た」で言い切れる。お湯の事例とシリウスBの事例で、何が違っているのだろうか?
結論を言えば、両者の違いは、体験が語られているか(お湯の事例)、知識が語られているか(シリウスBの事例)の違いであり、ここには「現場性」が関わっている。
お湯の事例では、発話の現場(給湯室)にいま現にお湯がある。発話の現場にあるモノを目のあたりにしながら、それを過去の状態からの変化として「~た」と言い切るのは、原則として、体験を語る発話である。だから、その変化の体験者(沸騰前の状態も見ていた者)しか語れない。
他方、シリウスBの事例では、発話の現場(教室)にシリウスBはない。発話の現場にないモノについて、その現状を過去の状態からの変化として「~た」と言い切るのは、原則として、知識を語る発話である。知識は誰でも語れるので、小学生でも白色矮星のシリウスBを語ることができる。
ここで「現場性」と呼んでいるものは、これまで「直示性」や「指標性」という名で知られていたものと変わるところがないし、それを「現場性」と呼び変えているのも、わかりやすさを考慮した便宜的な措置にすぎない。だが、この呼び変えに実質的意義がまったくないというわけではない。私が言いたいのは、言語と発話現場の関わりは、これまで考えられているよりももっと幅広く、多様だということである。そして、そのことを示してくれる語句の一つが終助詞「よ」である。もっともそれは、我々が話し手のキャラクタ(発話キャラクタ)を認め、それに応じた話し方(役割語)を認めなければ見えてこない。
『江戸っ子』の『男』の物言いを見てみよう。(対比のために『江戸っ子』の『女』の物言いも取り上げる。)たとえば「明日はいつ頃お発ちになりますか」とたずねてきた宿屋の亭主に返答するという(1)の場合、『江戸っ子』の『女』が(a)のように「朝だよ」という「体言+だ+よ」の形で答えることは自然であり、『江戸っ子』の『男』が(b)のように「朝よ」という「体言+よ」の形で答えることは自然である。
(1) [明日、宿を発つ時間帯を問われて] a. [『江戸っ子』の『女』が]決まってるじゃあないか。朝だよ。 b. [『江戸っ子』の『男』が]決まってらあ。朝よ。
しかし、朝方、まだ寝ている連れの者を起こそうとする(2)の場合は、『江戸っ子』の『女』が(a)のように、先の場合と同じ言い方(「朝だよ」)をすることは自然だが、『江戸っ子』の『男』が(b)のように、先の場合と同じ言い方(「朝よ」)をすることは不自然である。
(2) [朝、まだ寝ている連れを起こそうとして] a. [『江戸っ子』の『女』が]おい起きな。朝だよ。 b. [『江戸っ子』の『男』が]おい起きな。朝よ。 cf. 朝だぜ。
といっても、(2)の場合に「朝よ」と言うことじたいが不自然なのではない。『現代』の『女』は(c)のように「朝よ」と言えるからである。
(2) [朝、まだ寝ている連れを起こそうとして] c. [(『現代』の)『女』が]ねえ起きて。朝よ。
だが、それは『現代』の『女』の言い方であって、『江戸っ子』の『男』の言い方ではない。『江戸っ子』の『男』は「朝だぜ」のような、別の言い方をする。
つまり『江戸っ子』の『男』は、教えるモノ(朝)が発話現場にあるか((2)の場合で「朝だぜ」)、発話現場にないか((1)の場合で「朝よ」)によって、終助詞を変える。これが言語と発話現場の関わりでなくて何であろうか。(なお、ここで問題にしている『江戸っ子』の物言いとはあくまで現代日本語(共通語)社会で通用している『江戸っ子』キャラの役割語であって、これまでと同様、「現代日本語(共通語)」という考察範囲を外れるものではないということ、念のため断っておく。)
「終助詞「よ」は相手に情報を教える際に用いられる」などとしてしまうと、(2b)の不自然さは見えてこない。「情報を教える」という発話全般のうち、(2)のような「その場にモノ(朝)があると教える」発話は他とは別扱いすべきだと分かるのは、『江戸っ子』の『男』や『女』といった、発話キャラクタごとの物言い(役割語)に着目してこその話である。このように、発話に対する大雑把な見方を、日本語の実態に合うように精緻化していく上で、「発話キャラクタ」「役割語」という考えが役に立つことは少なくない。