主節末尾のコピュラと従属節末尾のコピュラを見たついでに、調子に乗って接続詞冒頭のコピュラにも視野を広げ、発話キャラクタによるバラエティの多寡を観察してきた。「もうコピュラの話は、いい加減よさないか」というお叱りの声も柳に風と受け流し、さらに調子に乗って、今度はコピュラで始まる「辞の文」を見てみよう。だって、面白いんだもん。
といっても、それには少し、前置きが必要である。
ここで「辞の文」と言うのは、たとえば「明日は雪が降るよね」と問われて答える際の、「らしいな」「みたいだね」「だよね」「かもね」などである。「らしい」「みたい」「かも」「だ」「よ」「な」「ね」すべて助動詞か助詞であり、助動詞と助詞は「辞」とまとめられることがあるので、ここでは「辞の文」とそれらしく呼んでいる。
だが、「辞の文」が日本語研究の中で一般的に認知されているというわけではまったくない。そもそもこのようなものは、まともに注目されていない。というのは、「助動詞や助詞だけでは文はできない」というのが日本語研究の一般的な通念であり、「辞の文」はこの通念に真っ向から反して見えるからである。
「辞の文」のおそらく最も簡単な処理法は、「辞の文」は冒頭の「そう」が省略されていると考えてしまうことだろう。「そうらしいな」「そうみたいだね」「そうだよね」「そうかもね」は辞だけでなく、詞の「そう」を持っている。ここから「そう」が、発音の際についちょっと省略されたのが「らしいな」「みたいだね」「だよね」などである、だから「辞の文」というのは表面的にはあるように見えるが、本当は「辞の文」などというものは存在しないという考えである。だが、この考えは「辞の文」を本当に片付けてはいない。
というのは、「そう」を省略することがどんな時になぜ可能で、どんな時になぜ不可能かは、ちっとも明らかでないからである。なるほど、「そうらしいな」は「そう」を省略して「らしいな」にすることができそうだが、「そうやると駄目だ」は「そう」を省略して「やると駄目だ」にすると文が不自然になってしまうし、「そう解釈されるとは思わなかった」は「そう」を省略して「解釈されるとは思わなかった」にすると意味が変わってしまう。たまたま「辞の文」の場合は、意味のよく似た「そう」付きの文があるからといって、ただそれだけの理由で「辞の文」を「そう」の省略でできたと考えても、それは「助動詞や助詞だけでできている文がある」という謎を「冒頭の「そう」は意味をほとんど変えずに省略されることがある」という謎に言い換えただけのことで、謎の解明にはならない。
それにそもそも、「辞の文」の中には、「そう」の省略と考えられないものもある。たとえば「会場は超満員だろう」と言う相手に、「ま、行ってみましょう」などと返しながら会場に向かった者が、閑古鳥の鳴く会場を前にして、相手に「でしょう?」などと「辞の文」を発することは自然だろう。しかし、この場合「そうでしょう?」とは言わない。どうしても省略説に固執するなら、この場合「そう」は必ず省略されなければならない、ということになる。だが、そんな義務的な省略があってよいものだろうか。省略とは、そのまま律儀に言ってもいいけど面倒くさいから省きますねという任意的なものではなかったか。
何よりも問題なのは、「辞の文」は「きもち欠乏症が発症しやすい」という不思議な性質を持っているのに、省略説はこれに背を向けて、この不思議を解き明かす力を何ら持たないということである。
ここで「きもち欠乏症」というのも私が勝手にでっち上げた仮称であって、これは「話し手のきもちが足りないと文が不自然になり得る」という現象を病気にたとえて表したものである。たとえば、井上優氏が観察されているように、ハンカチを落とした相手に向かって「もしもし、ハンカチを落とされました」と言うのは不自然だが、これはこの発話がきもち欠乏症に罹っているというのが私の見立てである。治療法としては「もしもし、ハンカチを落とされましたよ」のように終助詞「よ」を貼付して、相手に訴えかけるきもちを補給してやるのが一般的だが、「よ」の無い「もしもし、ハンカチを落とされました」のままでも、発話しながらハンカチを相手に差し出すなど、とにかくきもちを補給すれば症状は改善を見る。
コピュラは、「雪だ」のように、名詞(「雪」)に続く場合は自然さが高く安定しており、いくらきもちが欠乏しても発症には至らないが、形容詞に続く場合は自然さが不安定で、きもちが少しでも欠乏すれば発症することがある。形容詞現在形にコピュラ「です」が続く場合を見てみよう。
「この高原は夏でも涼しいでしょうか?」と問われて「涼しいです」と返すのは、特に不自然ではない。だが、高原に来て「涼しいです」などと言うのは日本語学習者のようで、あまり自然な日本語ではない。動物園でパンダを見て「かわいいです」などと言うのもやはり、自然な日本語ではない。
いけませんなあ、これはきもち欠乏症です。きもちを補給なさってください、お大事に――というわけで母語話者はふつう「涼しいですねえ」のように終助詞(「ねえ」)を付けてきもちを補給し、しみじみ感慨に浸ることになっている。人によっては「涼しい」のアクセントも無視してしまって、「涼しいですねえ」全体をなだらかな上昇調か高平調でゆっくりと、ことと次第によってはりきみさえして、きもちを補給するところである。マンガ『サザエさん』の『タラちゃん』や『シノラー』(なつかしい!)なら終助詞を付けないかもしれないが、その代わりに「かわいいですぅ!」などと末尾を伸ばしてきもちを補給するだろう。
形容詞過去形にコピュラ「です」が続く場合、きもち欠乏症はさらに猛威をふるう。「涼しかったです」「かわいかったです」などには、どんな状況でも違和感を覚えるという話者は少なくない。いけませんなあ、きもちを補給なさってください、というわけで、終助詞を付けて、なだらかな上昇調で「涼しかったですよー」「かわいかったですねぇ」などと言うと自然さは回復する。(続く)