前回は、形容詞の現在形や過去形にコピュラ「です」が続く場合を例に、「話し手のきもちが足りないと不自然になる」というきもち欠乏症を紹介したところで紙面が尽きてしまった。続いて紹介したいのは、「辞の文」も、きもち欠乏症に実にかかりやすいということである。
たとえば「明日は雪が降るよね」と問われて答える際、「か」と言うことはないだろう。いけませんなあ、きもち欠乏症です、きもちを補給なさってください、お大事に、というわけで終助詞「なあ」「ねえ」を付けてきもちを補給し、「かなあ」や「かねえ」にすると自然になる。
コピュラ「だ」で始まる辞の文を見ても、「明日は雪が降るよね」と問われて、「だ」と答えることはないが、「だなあ」や「だよねえ」などにすると自然である。コピュラ「です」も同様で、「明日は雪ですね? 雪ですねッ?」のように相手に「です」の文で問い詰められれば「です」と答えることはないわけではないが、相手の問いが「明日は雪が降るよね」のように「です」の文でなければ、ふつう「です」とは答えない。が、終助詞「ねえ」を付けてきもちを補給し、「ですねえ」などにすれば自然になる。また、「です」の仲間でも、問い返すきもちが出た「でしょう」は「です」よりも自然である。さらに言えば、「だ」の仲間「だろう」は、問い返すきもちが明瞭な上昇調「だろう?」の方が、下降調の「だろう」よりも自然である。
ところで、たとえば「ケムンパスというのは、おまえか?」「でやんす」のように、キャラクタの濃い話し手のコピュラ「でやんす」は、特に終助詞やイントネーションによるきもちの補給がなくても「辞の文」として自然になることがある。
つまり、きもちを補給するということと、キャラクタを濃くするということは、「辞の文」の自然さを高めるという同じ効果を持ち得る。これは一体、どういうことだろうか?――という問題は後回しにして、とりあえず「辞の文」 以外の例も見てみよう。そのため、コピュラとして「です」以外のものにも目を広げてみる。
『幼児』の「でしゅ」、『老人』や『田舎者』の「じゃ」、『後輩』の「っす」や『侍』の「でござる」など、さまざまなコピュラが形容詞に続く場合を観察すると、キャラクタがきもち欠乏症の発症如何と関わることがさらに見えてくる。いや、「関わること」ではなく、むしろ「関わらないこと」と言うべきかもしれない。なにしろ、ここで示したいことは「発話キャラクタ(つまり話し手のキャラクタ)が濃ければきもち欠乏症は発症しにくい」ということなのだから。
まず、話し手のキャラクタが比較的薄く、多様な話し手に発せられるコピュラとして、「だ」と「じゃ」を見ておこう。コピュラ「だ」をこのように位置づけるのは、「だ」は現れる環境(主節末か、従属節末か)によって役割語としての濃淡が異なるものの(補遺第13回)、主節末に現れるにしても濃さは知れているからである。「それであたくし、『この人は泥棒だ』って気づきましたの」のように、心内発話なら『上品な女性』でも発話できるほどである。また、コピュラ「じゃ」も、『田舎者』だけでなく、『神』や『奉行』のように『格』が高い話し手、さらに『老人』のように『年』が高い話し手と、意外に幅広いキャラクタが発することができる。つまり、コピュラ「じゃ」を発する話し手のキャラクタもそう濃くはない。
それでコピュラ「だ」「じゃ」が形容詞に続く様子を見てみると(ここでは形容詞現在形で代表させる)、たとえば「赤いだ」「赤いじゃ」が不自然なように、コピュラ「だ」「じゃ」は形容詞(「赤い」)には続かないように見えるし、実際「続かない」と記述されることも多い。だが、「赤いだ」「赤いじゃ」の不自然さは、きもち欠乏症によるものと考えることもできる。いけませんなあ、きもちを補給なさってください、お大事に――というわけで、推量してみせたり、相手に同意を迫ったりして、きもちを露わにすれば、「赤いだろう」「赤いじゃろう」のように、これらのコピュラは形容詞に続くようになる。また、特に『田舎者』は、コピュラとして「じゃ」の他に「だ」も発することができるが、「赤いだよ」が「赤いだ」よりずっと自然であるように、「よ」を付けてきもちを補給することが「形容詞+コピュラ」の自然さを高める。
ところが、話し手のキャラクタがもっと濃いコピュラはどうかというと、『外人』の「アカイデス」、『後輩』の「赤いっす」、『上流夫人』や『イヤミ』の「赤いざます」、『侍』の「赤いでござる」、『平安貴族』や『おじゃる丸』の「赤いでおじゃる」、『遊女』の「赤いでありんす」、その他「赤いでやんす」「赤いでごんす」「赤いなり」等々、特にきもちを補給しなくとも形容詞に続く。
断っておくと、これは「サルのお尻って赤いの?」と問われて答えるような場合にはかぎらない。返答なら、「はい、赤いです」のように「です」も形容詞に(特に現在形には)続きやすいが、たとえば燃えるように赤い夕焼けを見て自発的に「ああ、夕焼けが赤いです」と言うのはきもち欠乏症のため、あまり自然ではない。それではまるで日本語学習者のようだということを前回述べた。その際「日本語学習者」と言ったのも現実のさまざまな日本語学習者ではなく、キャラクタつまり人物像というイメージであって、つまりは『外人』キャラなら「アア、夕焼ケガ赤イデス。ワタシ、祖国ヲ思イ出シマス」などと言える。「ああ、夕焼けが赤いっす」「あら、夕焼けが赤いざます」「おお、夕焼けが赤いでござる」「面白や、夕焼けが赤いでおじゃる」「おんや、夕焼けが赤いでありんす」等々も同様で、形容詞にコピュラが続いて違和感はない。つまり、きもちを強めることと、キャラクタを濃くすることが、「形容詞+コピュラ」の自然さを高めるという同じ効果を持っている。これはどういうことなのだろうか。(再び続く)