理想的な書きことばとは、どのような書き手像(発話キャラクタ)も特に浮かばない非・役割語なのだろうか?――と、問いを投げかけたところで前回は紙面が尽きた。だが、この問いに対する私の答は、とうに決まっている。
なにしろ私は「すべてのことばは役割語で、程度の差はあれ、何らかの発話キャラクタが想定できる」と、本編で繰り返し述べてきた身である。どのような書き手像も特に浮かばない「非・役割語」なんて、そう簡単に認めてたまるものか。
というのはこちらの肚の内に過ぎないが、実際、書かれた文字と書き手像のつながりは、「字は体を表す」という形で世間一般に広く認められており、本編(第39回)でも「キャラクタは文字に宿る」というタイトルで山本周五郎氏の小説『さぶ』の一節を取り上げてすでに述べたところである。
手書きの文字だけではない。ヘタクソな「ダメ字」のフォントがわざわざ開発され、「なごみキャラ」をかもし出すのに用いられているように、活字にしても発話キャラクタとのつながりは否定できない。あずまきよひこ氏のマンガ『よつばと!』第4巻(アスキー・メディアワークス,2005年)では、主人公・小岩井よつばの叫び声だけがゴカールという、曲線が特徴的なフォントで記され、他の登場人物の叫びのフォント(ゴナ)とは区別されているという。(詳細は金田純平2011「文字表現の音声学」(定延利之(編)『私たちの日本語』(朝倉書店)所収)を参照されたい。)
それならば上記の問いはすでに解決済みではないか、その問いをなぜ持ち出してきたかといえば、話しことばと書きことばに話が及んだのを機に、これまで触れられなかった「解釈者」について述べておきたいからである。
ことばがわずかに違うだけで、そのことばを発するキャラクタも違ってくる、だからすべてのことばは役割語だというのは、一語一語をじっくり検討してかかればこその話である。現実には、すべての解釈者が一語一語をじっくり検討し、すべてのことばの細部にまで敏感というわけではない。ムクツケキ『男』とたおやかな『女』のことばの違いに全く気づかない、ヨボヨボの『老人』とヨチヨチの『幼児』のことばの違いなど何も感じないという解釈者はさすがにいない(したがって『男』『女』『老人』『幼児』といった大まかなレベルの役割語は認めてよい)だろうが、役割語をどこまで細かく認めていけるかは、解釈者の感受性を措いて論じることはできない。
マンガ『ゴルゴ13』で、子供たちに向かってゴルゴ13が「聞くがな、坊やたち」と言う場面を例にとれば(第38巻第136話「タラントゥーラ」)、あのハードボイルドなゴルゴ13が「坊やたち」なんて、とショックを受ける読者がいる。かと思えば、特に何も感じないという読者もいる。このように「すべてのことばは役割語だ」という考えには、実際には「解釈者次第」という但し書きが付き、その感受性によっては、役割語の領域は或る程度縮小しかねない。(これは役割語にかぎった話ではなく、文法性や多義性の判断にも同じことが言える。)
かく言う私もさまざまな鈍感さの中で暮らしている。『ゴッド・ファーザー』を観ても『ダイ・ハード』を観ても私が今一つ乗り切れないのは、幼少期に観たアニメ『悟空の大冒険』のせいで、「ふーん、あの弱っちい三蔵法師がねぇ」と感じてしまうからである。それは声優・野沢那智氏のせっかくの演じ分けに、私が鈍感だということである。
そう言えば以前、ルパン三世の相棒を務めるクールなガンマン・次元大介が「奥様、お肉が安い」と言うものだから仰天してテレビを観たらスーパーのCMだった。「奥様、お肉が安い」はないだろう、次元よ、仕事を選んでくれなどと私が思ってしまうのは、小林清志氏の演じ分けにも私が鈍感で、氏のどんな声を聴いても「次元だ」と感じてしまうからである。
しかし、これが声優の交代というレベルになると、私だけでなく多くの人が鈍感ではいられないようで、「峰不二子の声は『若い女』キャラなら誰でもいい」なんてことにはまずならない。その一方で「小岩井よつばの叫び声はやはりゴカールでなければ」といった「フォント談義」は聞かない。どうも我々の感受性は、話しことばよりも書きことばにおいて鈍化しがちなのではないか。解釈者の話をここで取り上げたのは、そういうわけである。
なに? おまえは前回、「話しことばと書きことばの違いは、単なるメディア(音声・文字)の違いではない」としておきながら、今回「理想的な書きことばは非・役割語か?」という問いを論じるにあたって「文字言語は非・役割語か?(いや、そんなことはない)」という話しかしておらず、結局のところ「書きことば」と文字言語、そして「話しことば」と音声言語を同一視してしまっているではないかって? 「理想的な書きことば」として取り上げられるべきは、メディアがどうこういうよりも、とにかく匿名性が高いことばではないのかって?
なるほど、そうかもしれない。だが、私が解釈者を持ち出したのは、そのような匿名性の高いことばについて論じるためでもある。
2012年11月7日、毎日新聞夕刊(関東・中部版)に「13年式G型トラクター買いたし 至急の商談求む。但し中東への輸出仕様。委細は面談の上にて。連絡乞う。一ツ橋インターナショナル商会 担当/竹橋」という広告が載った。その内容と文面から、竹橋なる人物は『格の高い年輩』の中東関係者と察しはつくが、それ以上はわからない。書き手のキャラクタは茫漠として匿名性が高く、この広告文句は役割語らしくない――かどうかは、新聞に目を通す解釈者次第である。解釈者によっては、「ゴ、ゴルゴ13への仕事の依頼だ! この時点で仕事場を「中東」と明かしたり、「委細は面談の上」「連絡乞う」など当たり前のことを連ねたり、多少饒舌な奴ではないか……」と、より具体的な書き手像が結ばれる。「解釈者次第」という事情は、発話キャラクタと役割語を或る程度ぼやけさせることも多いが、このように逆に鮮明化させることもある。