日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第53回 阿波踊りについて

筆者:
2014年2月9日

これまで「当該社会が課す文化的制約」と述べてきたものが,3種類に分けられるとして,そのうち「掟」と「マナー」については前回紹介した。では,残る「お手本」とはどのようなものなのか?

結論を言えば,「掟」「マナー」と同様,ここで言う「お手本」も,日常語の「お手本」と基本的に変わらない。つまり「掟」が「こんなことをしてはいかん!」というものであり,「マナー」が「これをやるならこのようにやるべし」というものであるのに対して,「お手本」は「これをやるならこのように……できたらいいなあ」と仰ぎ見るもの,目標とするものである。「お手本」から外れたからといって非難・白眼視されはしないし,実際のところ大抵の人は「お手本」から大なり小なり外れている。その意味で「お手本」は,当該社会が課す文化的「制約」と言うより,当該社会で目指される「模範」「理想のあり方」と言う方がしっくりくるかもしれない。

ここで強調しておきたいのは,「お手本」というものが一つの「実物」の「実演」であって,「こうしてこうしてこうこうする」といった一般的な記述には還元し尽くせない,表現しがたい美的な「何か」を持っているということである。

ここで話は唐突に私の研究現場に移る。私は言語やコミュニケーションの研究に携わっている関係上,研究データとして,人々が会話する様子を動画や音声の形で収録することが結構ある。もちろん,身近にいる大学生たちに頼めば大学生どうしの会話が簡単に収録できる。だが,大学生どうしの会話は大学生どうしの会話でしかない。それでは日本語社会が持っている,驚くほど多様なしゃべり方,語り口,言いぐさ,物言いの,ごく一部しか見ることができない。そこで,大学の外に出て,あちこちの人たちに「あなたたちの会話を録らせてください」と頼んでまわる。

てんばらみとら連

もちろん,見たこともないおっさんがいきなりこんな怪しげなことを頼んでも,承諾などなかなかしてもらえない。だが,それでも時には「どうぞどうぞ」と歓迎して下さる社会人サークルがある。その一つが「てんばらみとら連」という阿波踊りの団体(これを「連」と言う)で,そこでは中学生から80に届こうとするご高齢の方まで,さまざまなメンバーが阿波踊りの練習に励まれている。練習はするが,各人がどう踊るかは基本的に各人にまかされており,結果として全員の踊りは「てんてばらばら」,とても「見とられん(見ていられない)」,それで「てんばらみとら連」と言う。上に挙げたのはこの連のマークで,女の子が両目を手でふさいでいるのはそういうわけである。

世間にはさまざまな阿波踊りの連があるが,その多くは団体員の踊りを基本的に一つの型にそろえ,「マナー」を「掟」化した「鷹の爪団」の総統よろしく(前回),「この型と違う踊りを踊ってはいかん!」と,連の内部で「掟」を作っている。それはそれらの団体の勝手であって,文句を言うつもりは無い。だが,私が理解したところでは,阿波踊りは本来「右手と右足を同時に前に出す。左手と左足を同時に前に出す。以下これを繰り返す。細部はご随意に」という至って自由なものであって,現在,圧倒的な権威をもって不動の地位にあるかに見える阿波踊りの「型」というものは皆,遠い昔,どこかの誰かが編み出した粋な踊りが広まったものに過ぎない。つまり阿波踊りの世界は,いつなんどき,より冴えた粋な踊り方が新しく現れ,人々の心をとらえて世を席巻するかわからない「常在戦場」の状況にあるという。

これを聞いて,私はびっくりしてしまった。「しゃべり方」の世界と同じではないか。数十年前のテレビ番組を観ると,アナウンサーも,そこに出てくる一般の人々も,しゃべり方が現在とはどこか違う。つまり同じ現代日本語とはいっても,私たちのしゃべり方は変化している。このような変化が生じるのは,私たちが,日常会話で,自分が身につけたしゃべり方をお互いに披露し合い,戦わせ合い,その中で他者の魅力的なしゃべり方を知り,学び,時にそれを「自分流」にアレンジして新たに繰り出すという「常在戦場」の状況にあればこその話だろう。

「会話の収録は収録として,まぁ,踊りましょう」と誘われて断る理由もなく,私も現在,阿波踊りを踊っている。我ながら誠にぎこちない踊りで,痙攣(けいれん)と間違われないかと心配することもある。ところが上手い人たちの踊りを見ると,同じ踊りとは思えないほど優雅である。私は一所懸命,真似をしようとする。が,上手い人の踊りは単調な繰り返しではなく,腕の振り,手の形,足の繰り出し,すべてが毎回の動作ごとに違っている。「センセ(と私は呼ばれたりする),腰をこうかがめて,足をこう出して,腕はこう振ればいいんですよ」と,コツを教えてもらっても,なかなか体得には至らない。一人ひとりの踊りは皆違っているが,それでいてそれぞれに美しく,面白く,見ていて飽きることがない。ますます,「しゃべり方」の世界と似ているではないか。

私が「お手本」というのは,こういうものである。繰り返して言う。「お手本」は「実物」の「実演」であり,表現しがたい美的な「何か」を持っている。それは「こうしてこうしてこうこうする」といった一般的な記述には還元し尽くせない。私たちは「あんな風に……踊れたらいいなあ」と見とれて憧れるしかない。それが「お手本」である。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。