前回述べたのは、話し手が或るコミュニケーション行動を繰り出そうとすると、それを「得意技」とするキャラクタが発動されるという、コミュニケーション行動とキャラクタの原則的連動である。
そして、そこで言う「コミュニケーション行動」には、しゃべること、つまり言語行動だけに限らず、たとえば「流し目をする」「にじりよる」「ひざをつねる」というような非言語行動も含まれるのであった。
つまり、キャラの変化は、ことばだけでなく、身体も含めた影響を及ぼすということである。このことは、いまや世界的に有名になった日本のマンガを理解する上でも重要である。
たとえば、魔夜峰央『パタリロ!』4巻(1980, 白泉社)には、マライヒという人物をさんざんからかっていた主人公のパタリロが、マライヒから「つぶれアンパン」と言われ、それにいちゃもんを付けるという場面がある。
パタリロは子供だが、いちゃもんをつけるコマでは、
「えらい言われ方やんけ われ」
と突如、関西弁をしゃべる。その頬にはいつの間にか刀傷ができており、キセルタバコ、サングラス、ド派手なコートなど、或る種の関西やくざを思わせる姿に変身している。そして、続くコマでは何事もなかったかのように、元の(共通語の)子供の姿に戻っている。
このような「コマ間のすばやい変身」は、おそらく世界じゅうの読者を悩ます、不可解な謎に違いない。では、なぜ日本の私たちはこの謎を謎とも思わず、すんなり理解できるのか?
それは、私たちがコミュニケーション行動とキャラクタの原則的連動を知っているからであり、さらに「『いちゃもんつけ』というコミュニケーション行動は、やくざの得意技だ」という日本の常識に思い当たれるからである。マライヒにいちゃもんをつけるにあたって、パタリロは、いちゃもんつけを得意技とする『関西やくざ』キャラを発動させ、これが言語~非言語行動の全面に影響したというのが問題のコマである。
藤子・F・不二雄『ドラえもん』7巻(1975, 小学館)には、ドラえもんをだまして未来社会のグッズを手に入れたのび太が悦に入り、誰もいないところで、
「これはたいへんなものですよ」
と、丁寧調でひとりごとを言う場面がある。
この丁寧調を理解するには、「のび太は自分が手に入れたものを品定めするにあたって、品定めを得意技とする『専門家』あるいは『評論家』キャラを発動させてそれらしく鑑定してみせることで、自分の喜びを倍加させようとした」という想定が有効ではないだろうか。なにしろ、専門家や評論家は丁寧にしゃべるものだから。
『ドラえもん』は古典的なマンガであって、そこに変身技法は採用されていないが、もしこれが比較的最近の一部のマンガなら、のび太はたとえば髪をオールバックになでつけてパイプをくゆらしたり、あるいは和服姿でヒゲをはやして、
「いい仕事がしてありますねぇ」
などと付け加えてみせたり、そこでメガネがキラーンと意味ありげに光ったり、いかにも専門家・評論家らしい知識層の中高年男性の姿に変身するところだろう。