前回取り上げたのは、「舞台監督が鞭をふるうので仕方なく『優等生』役を子供の時からずっとやらされてきた」という、日常生活をショーに見立てた人物の述懐である。このような見立てがあくまでも見立てであって、必ずしも正しいとはかぎらないということはすでに述べた。だが、類似の見立てを行って、日常生活に生きる人々を役割という観点からとらえようとする例は少なくないし、そこで持ち出される「役割」の内実にもさまざまなものがある。見立ての是非はひとまず措いて、それらの「役割」を少し見てみよう。
いわゆる社交を論じる中で、山崎正和氏は、会話にうち興ずる人々の役割について次のように述べている。
「その日ごとに、また刻々と変わる話題ごとに、参加者は暗黙のうちにおのおのの役柄を選んでそれを演じる。主人役はもちろん、主客をあいてに笑いを誘う道化役、わざと議論を挑む敵役(かたきやく)など、多彩な登場人物が生まれて芝居の一座が形成される。ここでも最大のタブーは場違いであって、自分の居場所、役柄を直感的に把握できない人は、その一座の外に置かれることになる」
[山崎正和『社交する人間 ホモ・ソシアビリス』2003]
ここで持ち出されている『主人』『道化』『敵』といった役割は、これまで私が取り上げてきたキャラクタとは(つながりはするが)違っている。私が取り上げてきたのは、たとえば「もう秋じゃのう」と独り言を言う『老人』キャラのように、他者との会話なしに想定できるものである。
さらに、会話の場にかぎってみても両者には大きな違いがある。山崎氏が挙げられる役割は、会話の進展とともにどんどん変わり得る動的な性質を持っている。
いやもちろん、これまでに私が取り上げてきたキャラクタにも、動的な面がないわけでは決してない。たとえば、相手が強烈な『姉御』キャラならこちらもいつもの『姉御』キャラというのはなかなか難しく、『妹』キャラで行く方が無難なことがあるというように、キャラクタが(変わってはいけないことになっているが)会話の相手次第でひそかに変わり得るということは、すでに述べてきたとおりである(第8回参照)。相手の強烈な『東京人』キャラに釣り込まれて自分も『東京人』キャラになったり、かえって反発して『大阪人』キャラになったりというのも、まさしく同じことである(第15回・第16回・第17回)。
だが、山崎氏が持ち出される役割は、それよりもはるかに動的であり、しかもあからさまである。話題が変わるとたちまちA氏が皆の見ている前で『主人』から『敵』に変わり、それに応じてB氏が皆の前で『敵』から『道化』に早変わりするというようなあけすけな動的性質を、これまで私が述べてきたキャラクタは持っていない。
むしろ、これまで述べてきたキャラクタは、遊びの文脈を別とすれば、「意図のままに変えられない(ことになっている)」という、少なくとも表面レベルでは静的な性質を持っている。そもそも、ことばやコミュニケーションを考える際、従来の「スタイル」とは別に「キャラクタ」という概念を導入する必要性は、まさにこの静的性質にあるのだった。(次回に続く。)