そもそも「役割」とは目的論的な用語である。たとえば見張り役とは誰にも見つからず隠密にことを運ぶ「ため」の役割であり、ゴールキーパーとはサッカーで自軍ゴールを敵から守る「ため」の役割である。このように目的がはっきりとしていれば役割もはっきりする。
目的のないところには役割もない。「ケガ人の役割は?」と言われると、私たちは返答に詰まってしまう。それは目的に思い当たらないせいである。しばし考えて私たちが何か答え始めるとすれば、それは「ケガ人は、今後もう私たちの社会が同様の事故を起こさないようにする『ため』の生きる教訓だ」「避難訓練を成立させる『ため』には、本物だろうとニセモノだろうとケガ人役が必要だ」のような、目的のひねくり出し、こじつけである。
私たちの日常は、何も意図せず計画しなくても、それなりにちゃんと(「無為に」であれ)流れていく。それでもやはり私たちは目的を立てているのだと考え、そこに生きる人々に「役割」を重ね合わせて見るのは、一種の見立てである。
「……自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後(うしろ)に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。策うたれ駆られてばかりいる為めに、その何物かが醒覚(せいかく)する暇がないように感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一寸(ちょっと)舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後(うしろ)の何物かの面目を覗(のぞ)いて見たいと思い思いしながら、舞台監督の鞭(むち)を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役が即(すなわ)ち生だとは考えられない。背後(うしろ)にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。しかしその或る物は目を醒(さ)まそう醒まそうと思いながら、又してはうとうとして眠ってしまう。」「……夜寐られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終るのかと思うことがある」
『優等生』キャラ、お疲れさまです。たしかに、『優等生』キャラって、ストレスたまりまくりですよね。「このキャラやめたい」とか「もうちょっと自分の地でいきたい」とか思ってる人、けっこう多いみたいですね。私なんかが何を申し上げても釈迦に説法だと思いますけど、少しでもお気休めになればということで、一応申し上げます。
「舞台監督の鞭」、この際、多少痛くても無視しちゃったらどうでしょうか。ていうか、そんなもの、本当にあるんでしょうか。「ショーは続けなければならない」なんてよく言いますけど、人生は続けるも何も、勝手に続きますよね。何をやってもやらなくても昼が来て夜が来て一日経っちゃうのに、それを「ショー」と呼んで、ショーを成立させる「ため」にみんな「役」にはまらなきゃいけないみたいに思い込む必要はないですよね。『優等生』キャラがイヤなら、そこからはみ出しちゃってもいいんじゃないでしょうか。
でも、『優等生』キャラはやめられても、「舞台から降りる」っていうのは、これがなかなかむずかしいんですよね。結局『不良』キャラとか『グータラ』キャラとか、また別のキャラになっちゃったりするんですよね。ショーを成立させる「ため」、とかじゃなくて、何となく自然に、そうなっちゃうんですよね。
いや失礼、つい勝手なことを申してしまいました。お気に障りましたらどうかお読み捨てください。くれぐれもお大事に。
『妄想(もうぞう)』(1911年)著者 森鷗外様