クラウン独和辞典 ―編集こぼれ話―

108 耳の文化と目の文化(25)―正書法を乱すもの(1)―

筆者:
2011年2月7日

これまで見てきたドイツ語正書法は現代ドイツ語を文字によって体系的に表そうとする規則の集まりである。その意味で、不統一があるにしても、規則と呼ぶことができる。しかし、これをさらに乱すもののひとつに歴史的綴りがある。ドイツ語に限らず、あらゆる言語は時代とともに絶えず変化するものであるから、発音も変化する。しかし、文字表記されたものは長い間、慣れ親しんでいるから、発音を表しているというよりは表語的なものと感じられ、それを変えるのはどうしても抵抗感が生じる。

例えば、[f]はfで表すのが普通だが、Vater「父親」、vier「4」、von「…の」、Frevel「不法行為」などの語ではvで表されている。これらは中世以来の書法を守っているのである。また、現代語のSchnee「雪」、schlafen「眠っている」、schmal「細い」などは中世語ではsnê, slâfen, smalであり、語頭のsは[s]であったが、その後[ʃ]に変化したために表記もschと変わった。ただ、語頭のsp, stだけは発音の変化にも関わらず、中世語のままsprechen「話す」、Stein「石」などと書かれる。

現代語は[i:]をieと書くことがあるのも歴史的綴りである。中世語では bieten「提供する」、 lied「歌」などは文字通り[biətən], [liət]と発音されていた。これらの語は近世になって[bi:tən], [li:t]と発音されるようになったが、綴りはそのまま残ったために、ieのeは長音記号と解釈されるようになった。これによって、中世語のligen「横たわっている」、siben「7」などの本来eがなかった語も現代語ではliegen, siebenのように綴られるようになった。

中世語ではsehen「見る」、zehen「10」などの語のアクセントのないeはしばしば脱落して、[se:n], [tse:n]と発音されたので、その結果、hは長音記号と解釈されるようになった。これによって、中世語gên「行く」、stên「立っている」などの本来hのない語も現代語ではgehen, stehenなどと綴られるようになった。また、Aal「ウナギ」、Meer「海」、Boot「船」のように、長音の[a:], [e:], [o:]をaa, ee, ooと表記するのも歴史的綴りである。

現代語では二重母音の[ai], [ɔy]をei, euと表記するが、これも歴史的綴りである。ただ、ふつう[ɔy]はeuと書くだけで、oiと綴ることはないが、[ai]は Kaiser「皇帝」、Mai「五月」のようにaiと書く語もあるから不統一である。

これらの不統一が残っている原因として種々のことが考えられるが、ひとつは同音異義語の区別に使えることである:Wagen「車」-Waagen「秤(複数形)」、leeren「空にする」-lehren「教える」、Moor「泥地」-Mohr「ムーア人」、Saite「弦」― Seite「側」。

筆者プロフィール

『クラウン独和辞典第4版』編修委員 新田 春夫 ( にった・はるお)

武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

編集部から

『クラウン独和辞典』が刊行されました。

日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

(第4版刊行時に連載されたコラムです。現在は、第5版が発売されています。)