音声言語を保存する手段として発明されたものが文字である。世界にはラテン文字、ギリシア文字、ヘブライ文字、アラビア文字、キリル文字、ハングル、仮名、漢字など、きわめて多種多様な文字があるが、これらの大多数が表音文字であり、表意文字は現在でも残っているのは漢字ぐらいである。
文字によって音声言語を書き表すために定められた規則集が正書法である。この正書法もラテン文字のような表音文字を使う場合は発音どおりに書けばいいから簡単だろうと思われるもしれないが、必ずしもそうではない。今回のクラウン独和辞典の改訂作業はちょうどドイツ語圏諸国によるドイツ語正書法の改正と重なったが、これがなかなかまとまらず、私たちもずいぶんやきもきさせられたのである。
音声を文字によって再現するとは言ってもアルファベットでは足りず、文字の組み合わせによることになるから、そこですでに音(おん)と文字との1対1の対応関係は崩れてしまう。また、発音は時代とともに変化するが表記は必ずしもすぐに対応せず、いわゆる歴史的綴りが残る。かと言ってこれを発音どおりに改めようとすると慣れ親しんだものを変えることには誰しも抵抗感があるから反対が起きる。
音声言語と書記言語の根本的な違いは書記言語では視覚的な区別を利用する点にある。同音異義語は音声的には同じなのに文字で表記するときは区別しようとする。また、名詞や動詞などは語形変化し音形が変わるが、これを発音どおりに書くとお互いの関連が不明になるので、語幹の同一表記によって語源的関連を示そうとする。さらに、慣用的な句が新しい語義を獲得したと認められると、それを語として1語に表記しようとする。しかし、その判断は明確に下せるものではなく、それが決まらないと辞典編集者は見出し語として立てるのか、語句として用例の中で記述するのかに悩むことになるのである。
このように、正書法を改定しようとすると必ずもめるのはそれがさまざまな原則の折衷的な産物でしかありえず、あちらを立てればこちらが立たずの関係にあるからである