最初の2回(第1回・第2回)で述べたことは,モグラがその生息環境に適した形態をしているように,私たちがコミュニケーションで使用することば(テクスト)の形式も往々にしてその状況(コンテクスト)にふさわしい形式をとるということでした。
とすれば,同種のコミュニケーション行為であっても,それを行うコンテクストが異なるなら,表現方法や解釈プロセスに違いが出るかもしれません。今回と次回では,アイロニー(反語,皮肉)を伝えるという行為が,書きことばを用いるときと口頭で対面的に行うときでは,異なる部分があることを示したいと思います。
次の例は,1998年に私が米国に留学していたときに日本の勤務先に送ったファックスの冒頭部分です。当時はまだ,ファイルのやりとりをメールで行うことが一般的ではありませんでした。
(3) 先日は,講義題目の原稿等,たくさん,たくさんファックスで送っていただきまして,ありがとうございました。午前4時過ぎでした。まだ暗い静かな室内にファックスが無機的な受信音を響きわたらせ,それはそれは,すばらしい芸術空間を創造してくれたものです。次回の公演予定はいつ頃でしょうか? 家族ともども楽しみにお待ちしております。
(3)を読んで,どのような印象を持ったでしょうか。文章の表面は感謝と期待の意を伝えています。ですが,真意はこれと逆で,受けた迷惑をなじる気持ちが行間にふつふつとわいてくるかと思います。(実際,当時の(特に米国製の)ファックスの受信音は今のように静かなものではありませんでした。しかも都合の悪いことに,配線の関係でファックスを寝室に設置せねばならなかったのです。やれやれ。)
では,なぜこのような芸当が可能になったのでしょうか。(3)の文章を前にして,誰しもがアイロニーを感じたとすれば,表面上の意味合いを反転させる仕組みがこのテクストには備わっているはずです。それは何でしょう。
(3)のテクストで目に付くのは,「たくさん,たくさん」と「それはそれは」という,一見したところ不要な繰り返しです。ふつうはこんなに繰り返しません。わざわざやったからには意味があるだろうと考えるのが,コミュニケーションにおける私たちの常套です。
「たくさん」は繰り返されると,しばしば度を越した強調となります。そして,強調が過ぎると,発言内容はうそくさくなります。「たくさんファックスで送って」もらったのなら「ありがたい」ですが,「たくさん,たくさん送ってもらった」のならありがた迷惑かもしれません。すでにこの時点で,意味が反転する兆しが見られます。
次に来るのが「午前4時過ぎでした」という短い説明です。午前4時にファックスを送るのは,緊急の用でないかぎり,非常識です。ありがとうという感謝のことばは,午前4時にファックスを送るのは失礼だ,という常識的知識と明らかに対立します。
アイロニーが発動するのに必要なのはこの種の対立です。不安定なうそくさいことばと動かしがたい事実――この場合は常識的知識――との対立です。私たちはこのような場合,うそくさいことばの意味合いを通常とは違えてとらえることによって,首尾一貫した解釈を保持するわけです。
となると,迷惑を被った作者が白々しくもねちねちと述べる「声」が行間に聞こえてくるはずです。
ひとたびアイロニーの解釈が発動すると,あとはその方向で解釈が進められます。「すばらしい芸術空間」は安眠を妨げるうるさい室内を想起させ,「家族ともども」のくだりは,作者当人のみならず家族全員が迷惑したことを伝えます。「それはそれは」という繰り返しは,皮肉な口調を再確認させるでしょう。
要するに,(3)のテクストがアイロニーを引き起こしたのは,表面的な文意と常識的知識が対立し,しかも,一見不必要な繰り返しがその対立を際立たせているからです。
さて,(3)は書きことばによってアイロニーを伝えた例と言えますが,次にこれと対話の場におけるアイロニーとを比べてみましょう。どこか異なる点はあるでしょうか。あるとすれば,それは書きことばを用いることと対面的に口頭で伝えることとの違い――コンテクストの違い――によってもたらされたはずです。