表現しづらい味覚体験を外しながら叙述する方法の三つ目は,食前編です。調理の過程を克明に記すことで,摂食行為に触れずに味覚を語る方法です。
水上勉による次の一節は、少年時代の禅寺での経験をもとにしています。彼は,引用文中の「老師」の隠侍として食事を含めた身の回りの世話をしていました。16歳から18歳の頃です。少し長い引用になります。ゆっくり読んでみてください。
(51) 「承弁や。また、お客さんが来やはった。こんな寒い日は、畑に相談してもみんな寝てるやもしれんが、ニ、三種類考えてみてくれ」
承弁というのはぼくの僧名だった。酒のほうが第一だから、先ず、燗をした徳利を盆に、昆布の揚げたのをつまみにのせて出しておいてから、台所で考える。
くわいを焼くのは、この頃からのぼくのレパートリーだった。のちに、還俗(げんぞく)して、八百屋の店頭に、くわいが山もりされ、都会人には敬遠されるとみえ、ひからびているのを見ると涙が出たが、一般には煮ころがしか、あるいは炊きあわせにしかされないこれを、ぼくは、よく洗って、七輪にもち焼き網を置いて焼いたのだった。まるごと焼くのだ。ついさっきまで土のなかにいたから、ぷーんとくわい独得のにがみのある匂いが、ぷしゅっと筋が入った亀裂から、湯気とともにただようまで、気ながに焼くのだ。この場合、あんまり、ころころところがしたりしてはならない。焼くのだから、じっくりと焼かねばならぬ、あぶるのではない。もちろん、皮なんぞはむいてない。したがって焼けたところは狐いろにこげてきて、しだいに黒色化してくる。この頃あいをみて、ころがす。すると、焼けた皮がこんがりと、ある部分は青みがかった黄いろい肉肌を出し、栗のように見える。ぼくは、この焼きあがったくわいを大きな場合は、包丁で二つに切って皿にのせて出した。小さな場合はまるごと二つ。わきに塩を手もりしておく。これは酒呑みの老師の大好物となった。(水上勉『土を喰う日々』)
あなたの周りにも,苦味のある匂いが立ち込めてきましたか。
引用は,「畑に相談」するという老師のことばからはじまります。このことばは水上の料理に対する姿勢を象徴しています。精進料理とは「土を喰うものだ」そうです。水上少年も「畑と相談し」ながら,丹精を尽くして調理し,土との結びつきをそれを食する人へとつないでゆく。
このような設定があるおかげで,何気ない記述に潜む水上の専心と工夫(精進)が際立ちます。「ついさっきまで土のなかにいた」くわいを七輪で焼くだけの単純な作業の随所に,実に細やかな配慮が感じられるのです。「よく洗って」「気ながに焼く」。「焼くのだから,じっくりと焼かねばならぬ、あぶるのではない。」表現のひとつひとつが力強く,水上少年の確信に満ちています。迷いがありません。ことば通り,いやことば以上に,丁寧に洗って,腰を据えて焼いたのだと思います。
こうした克明な記述のおかげで,読み手まで焼き網のくわいをにらんでいるかのような気になります。そして,焼けこげた表面に「ぷしゅっと」亀裂が入り,そこから苦みのある匂いがあふれてくる。じっくりと焼かれた芋類が内に持つほくほくとした(もしくは,ねっとりとした)うまみとほのかな甘み。くわいの場合,苦みがあるだけに余計に引立つでしょうね。
「わきに塩を手もり」するあたりでは,料理の仕上がりに思わず手を叩いてしまいますが,すでにくわいを食したかのような気さえします。味覚体験には一切触れていないのに,調理過程を記すことで当該の料理の味覚を伝えているのです。
食卓の話者が味覚体験のただなかで「おいしい」としか言いようがないのとは,大きく異なります。遠隔化により現在進行形の味覚経験から離れ,しかも,調理過程を記すことで過去の味覚経験からも離れました。味覚そのものから二重に隔てられたことが,逆に表現を豊かにしたのです。
私事になりますが,実のところ私は,くわいが大の苦手でした。おせちのなかに鎮座するそれを見ると,新春からうんざりしたものです。「一般には煮ころがしか,あるいは炊きあわせにしかされない」それは,どういうわけか口中の水分をすべて持っていってしまう。合わないのです。
ですが,この一節のおかげで素焼きと小さめの素揚げは,おいしくいただけるようになりました。「一般には煮ころがしか,あるいは炊きあわせにしかされない」それは,やはり,今でも遠慮したいのですが…
次回からグルメ漫画に話題を移します。