四字熟語とはどんなものか? 漢字が4つ並んでいれば、四字熟語なのか?
その定義は、なかなかむずかしい。たとえば、「自己」のあとに漢字2文字がくっついたことばは、たくさんある。「自己矛盾」「自己満足」「自己嫌悪」「自己否定」「自己崩壊」などなど。
これらは四字熟語と呼べるのか? そう思えるものもあれば、そうは思えないものもある。その線引きをするのは、きわめて困難だ。
太宰の作品の中にも、「自己○○」はたくさん出てくる。中でも出現回数が多いのは、「自己弁解」の15回、「自己嫌悪」の13回。自分を取り繕おうとしたり、ことさらに嫌ってみせたり。このこと自体、太宰の自意識のありようを物語るようで、おもしろい。
では、自分を積極的に評価するような「自己○○」は、太宰は使わないのだろうか。そう思って見てみると、「自己満足」は1回しかない。「自己肯定」は5回あるけれど、批判的な文脈で用いられることが多いようだ。
自信のなさと自信の強さとは、たいていの場合、表裏の関係にある。太宰だって、例外ではない。それにしては、「自己○○」については、バランスが悪い。
そんなことを考えていて、「自己犠牲」ということばがあることに思い至った。いかにも太宰好みじゃないか! 勢い込んで調べてみたが、これもまた、2回しか使われていないのだ。
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そんなことがあってからしばらく経って、ふと、『斜陽』のラストシーンを思い出した。主人公のかず子は、デカダン生活を送る流行作家の上原とたった1度だけの不倫の関係を持って、望み通り、彼の子を宿す。彼女は、上原への手紙の中で、次のように書く。
「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」
太平洋戦争の敗戦という古今未曾有の国難。それまで信じられてきた価値観が、すべて崩壊してしまった中で、しかし、「古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています」。だから、彼女は言うのだ。
「犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。」
偽善に充ち満ちた「古い道徳」に対して、「道徳革命」を挑むかず子。その完成のためには、「もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます」。
彼女の言う「犠牲」は、「自己犠牲」ということばでイメージされるような、やわなものではない気がする。自己を犠牲にすることで、他者を幸福にしようというような、そんな甘いものではない気がする。
死に物狂いの戦いの中で、傷つき、倒れ、「犠牲」となる。その行為、その過程そのものが目的となっているような、ギリギリした中での、自己中心的だと言いたくなるほどの「犠牲」の感覚。
これまで、ぼくは『斜陽』を何回も読み返してきたが、そんなものを感じ取ったことはなかった。
すぐれた文学作品は、ちょっとした「ことば」をきっかけにして、いろんな世界をかいま見せてくれる。だから、文学はおもしろいのである。