絵巻で見る 平安時代の暮らし

第13回『年中行事絵巻』巻三「闘鶏」の寝殿造を読み解く その1

筆者:
2013年10月5日

場面:闘鶏(とうけい。鶏合(とりあわせ)とも)
場所:ある貴族邸の寝殿造
時節:春

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建物:①正門(東正門) ②・⑱檜皮葺(ひわだぶき) ③切妻造(きりづまづくり) ④・⑲棟瓦 ⑤築地(ついじ・ついひじ) ⑥上土(あげつち) ⑦脇壁 ⑧東中門(ちゅうもん) ⑨中門廊(東中門北廊) ⑩中門廊(東中門南廊) ⑪塀 ⑫侍廊(さぶらいろう) ⑬・㉑沓脱(くつぬぎ) ⑭・㉒・㉖簀子 ⑮扉 ⑯・⑰連子窓(れんじまど) ⑳妻戸 ㉓東の対 ㉔階(きざはし) ㉕高欄 ㉗南広廂(みなみひろびさし) ㉘御簾(南廂) ㉙下長押(しもなげし)

はじめに 今回から六~七回にわたり、絵巻に描かれる平安貴族邸宅の「寝殿造」を読み解いていくことにします。最初の三回は、『年中行事絵巻』巻三「闘鶏」の絵を扱いますので、以下、この邸宅を「闘鶏の家」と呼ぶことにします。闘鶏自体や描かれた人物にはあまり触れられないことを、あらかじめお断りしておきます。

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寝殿造とは 最初に、寝殿造と呼ぶ建築様式について触れておきましょう。

寝殿造の「寝殿」とは、中心となる正殿の意味で、敷地の中央に南面して立てる建物を言います。寝殿の東西には、「渡殿」と呼ぶ渡り廊下を挟んで、「対の屋(単に「対」とも)」と呼ぶ副屋を設けます。それぞれ「東の対」「西の対」と区別します。寝殿の北側にも「北の対」を平行して建てることもありました。東西の対からは、「中門廊」と呼ぶ、渡り廊下のような長い建物を南に延ばして建てます。その先には、「池(南池)」が多く掘られました。すなわち、寝殿・東西の対・中門廊をコの字を90度傾けた形で配置し、内側を庭(南庭)としました。そして、敷地は「築地」と呼ぶ土塀で囲み、東西どちらかに「正門」を設けました。この他に、あとで触れます付属的な建物が幾つか建てられました。

以上が、簡単な様式の概要になりますが、身分や財力、あるいは立地条件などによって、敷地の広狭や建物の大小と数などに相違がありました。しかし、こうした様式は意識されていましたので、この点を絵巻で理解していただければと思います。なお、寝殿造という用語は、江戸時代末の国学者、沢田名垂(さわだ なたり)著『家屋雑考(かおくざっこう)』という書物での命名で、平安時代にあったわけではありません。

敷地の広さ 続いて敷地について触れておきます。敷地の広さには身分規制があり、三位以上の位階に許されたのが一町の広さでした。一町は約120メートル四方になり、寝殿造はこの広さを基本にして考えます。したがって、四位以下の貴族邸宅は、半町・四分の一町などとなり、必然的に建物の規模や数が限られます。闘鶏の家の場合は、建物の配置などから一町になると考えられますので、この広さを前提にして考えていくことにします。

正門と築地 それでは、絵巻を見ていきましょう。闘鶏の家の主人は三位以上として、どのような身分であったでしょうか。それは、正門の構えで見当がつきます。大臣以上の場合は、門柱(主柱)の前後に副柱がそれぞれ二本付く「四脚門(しきゃくもん・よつあしもん。大臣門とも)」にすることが許されましたが、闘鶏の家は親柱だけです。そうしますと、大臣にはなっていない公卿(上達部)の家となります。ただし、規制を守らない中級貴族が一町屋を構えることもありましたので、その可能性もあります。しかし、豪勢に闘鶏を催す様子などから、ある公卿の家と考えておきます。

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この家の①正門の形は、棟門と呼びます。親柱二本で棟を高く上げ、屋根を②檜皮葺の③切妻造にし、④棟瓦が載せられています。

敷地の門以外の部分には⑤築地を廻らします。築地の上部は板葺に土を載せた⑥上土になっていて、当時の貴族邸宅は、この形が一般的でした。門の両側は、白く漆喰を塗る場合があり、これを⑦脇壁と言いました。これも身分の高さを示します。築地は、土を塗り固めて作りますので崩れやすく、絶えず補修が必要でした。ですから築地の崩れが放置されている家は、貧しい家と見られることもありました

闘鶏の家では、見物客たちも大勢訪れています。乗用した牛車は築地に添って並べられ、牛は放されました。訪問客が多いのは威勢のある家となりますので、門や築地とともに、外見で家の主人の格に見当がついたわけです。

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侍廊と中門廊 では、門内に入りましょう。正面には、さらに門が見えます。これを⑧中門と呼び、南庭への出入口となります。その両側が⑨・⑩中門廊です。中門北側を⑨中門北廊、南側を⑩中門南廊と呼び分けます。正門を入った右側(北側)にも建物が見えます。これは⑪塀で、この奥に⑫侍廊と呼ぶ建物があります。また、左側(南側)は描かれていませんが、車庫となる車宿(くるまやどり)や、警護を担当する随身(ずいじん)の詰所となる随身所と呼ぶ建物も配置されます。正門を入ると、これらの建物で囲われた空間があるわけです。

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さらに⑫侍廊と⑨・⑩中門廊を細かく見ておきましょう。侍廊は、⑪塀の後ろで、⑬沓脱と⑭簀子だけが見えます。沓脱と塀の間には、スペースがあります。目隠し用の⑪塀は、立蔀(たてじとみ。格子状にしたもの)にする家もありました。闘鶏の家では、塀に⑮扉と⑯連子窓が付いています。侍廊には、この家の家司(家の職員)が執務する侍所(さぶらいどころ)が置かれます。寝殿や対などで主人筋と対面する客以外は、ここで用事を済ませました。

寝殿などに上がる客や、この家の人の場合は、⑨中門北廊まで行きます。これは東の対に続く廊下で、築地側は壁、内側は吹き放ちです。闘鶏の家では分かりませんが、内側にも簀子が付きます。ここの壁にも、⑰連子窓が付けられ、⑱檜皮葺の屋根に⑲棟瓦が載っています。牛車で乗り入れる場合は、牛をはずして⑳妻戸の前まで引き入れます。妻戸の前には、上がる為の㉑沓脱と㉒簀子が見えます。もし、勅使(天皇の使い)などが訪れた時は、牛車を⑧中門から南庭に入れて寝殿南面に直接着けることになります。

⑩中門南廊は、南池に続く廊下で、床を張らずに土間にする場合もあります。南端には、釣殿(つりどの)と呼ぶ、釣り用の建物を建てましたが、闘鶏の家の実際は不明です。釣殿については、第16回で扱いますので、これ以上のことは省略します。

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東の対 さらに来客として、⑳妻戸から、⑨中門北廊を通り、㉓東の対に向かいましょう。東西の対は南北棟です。闘鶏の家には、㉔階と㉕高欄の付く、南端から東端に曲がる㉖簀子と、吹き放ちになる㉗南広廂が見えます。その奥の㉘御簾の内側は、南廂になります。

廂とは建物の中心部の母屋を取り巻く空間のことで、さらに外側に間取りをする場合は、広廂(孫廂とも)と言います。対の屋の南広廂は吹き放ちですが、東西どちらかに広廂を設ける場合は、室内になります。室内については、寝殿のところで触れることにします。

この㉓東の対には、㉖簀子・㉗南広廂・㉘南廂のそれぞれの境に、㉙下長押によって段差があります。東の対が接客の場になり、客に身分差があると、この段差によって座る場所が決められます。南広廂に公卿(三位以上)が座れば、簀子は殿上人(四、五位)というように、身分が視覚化されるのです。

今回は、①東正門から㉓東の対までにします。さらに回を改めて寝殿造を見ていきます。

〈つづく〉

筆者プロフィール

倉田 実 ( くらた・みのる)

大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず邸宅、婚姻、養子女など、平安時代の歴史的・文化的背景から文学表現を読み解いている。『三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『狭衣の恋』(翰林書房)、『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園 平安文学と隣接諸学1』(編著、竹林舎)、『王朝人の婚姻と信仰』(編著、森話社)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)など、平安文学にかかわる編著書多数。

■画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年は辞書の挿絵も手がける。

『全訳読解古語辞典』

編集部から

三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員の倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載。今回から、平安貴族の寝殿造の構造について詳しく取り上げる「寝殿造特集」が始まりました。この絵は、特別拡大版で3回に分けて取り上げて頂きます。次回はいよいよ、「渡殿」を渡って奥の「寝殿」へと入ります。どうぞお楽しみに。

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