場面:龍頭鷁首の舟を見る藤原道長
場所:土御門邸(つちみかどてい)の釣殿(つりどの)と南池。
時節:寛弘5年(1008)10月16日。
人物:[ア]冠直衣姿の左大臣藤原道長、43歳 [イ]・[ウ]烏帽子・狩衣姿の下仕え
建物:①釣殿 ②簀子 ③下長押 ④欄干 ⑤廂か
南池:⑥龍頭の舟 ⑦鷁首の舟 ⑧太鼓 ⑨棹 ⑩剣巴文様(けんどもえもんよう)の飾り ⑪洲浜形(すはまがた)の文様 ⑫水引(みずひき) ⑬南池 ⑭洲浜 ⑮松 ⑯前栽
絵巻の場面 この絵は、[ア]藤原道長が⑤⑥龍頭鷁首の舟を見ている場面です。何で舟を見ているのでしょうか。この日は、一条帝が、中宮彰子の産んだ若宮・敦成親王(あつひらしんのう。後の後一条帝)をご覧になるために土御門邸に行幸してきます。彰子の父道長は、帝を自邸にお迎えする趣向の一つとして、龍頭鷁首の舟を浮かべて船楽(ふながく。楽人が舟で演奏すること)をすることにしました。その為に新造した舟を道長は実検しているのです。見ているところは、①釣殿のようです。本シリーズの第6回と第8回で見ました、若宮の五十日の祝よりも半月ほど前の時点になります。
画面の構図 それでは画面の構図を確認しましょう。①釣殿が逆三角形になって描かれていますね。三角形の線は、②簀子の端になっています。見方を換えますと、簀子で表される二本の斜線を交差させる構図となっています。そして、簀子の板がきれいに平行して描かれています。また、簀子の端・③下長押・④欄干・⑤廂の板敷がやはり平行しています。こうした描き方は、図形学での等軸測投影法(とうじくそくとうえいほう)と呼ぶ表現方法と近いとされています。二方向の斜線を交叉させ、一定方向に伸びる線がすべて平行になるような空間表現です。
この等軸測投影法と近い構図を、実は本シリーズでもすでに見てきました。どの回か、お分かりでしょうか。もっとも分かりやすいのは、第6回で扱いました、同じ『紫式部日記絵巻』の敦成親王五十日の祝の場面でした。そこでは、上長押の線と、几帳の横木の線が交差するようにされていました。この絵巻は、こうした構図を好んだようです。他の場面にも認められますので探してみてください。
道長の衣装 続いて、[ア]道長の描かれ方に注意しておきましょう。何だかとてもマッチョに描かれていますね。衣装は、やわらかな曲線ではなく、折り目ただしく、こわばって描かれています。これは、12世紀後半から流行した強装束(こわそうぞく・こわしょうぞく)と呼ぶ着装の様式です。堅い生地に糊を利かせ、強く張って仕立てました。これ以前は、糊を使わずに、柔らかな生地でしたので萎装束(なえそうぞく)と呼んでいます。衣装の様子に絵巻が作成された時代の様式が反映されているのです。なお、道長の直衣には、丸い文(もん)が見えますので、これは浮線綾(ふせんりょう)と呼ぶ、文様を浮き織りにした綾織物になります。
道長の顔 さらに道長の顔について見てみましょう。頭部は体全体からみて小さめで、面長(おもなが)になっています。また、頬が大きく張っていて、頭頂部は狭くなっています。さらに瞼(まぶた)は上下に描かれ、一筋の線で描いてはいません。『源氏物語絵巻』の引目鉤鼻(ひきめかぎはな)の技法とは、違ってきていることが分かりますね。ここにも絵巻の成立年代の違いが認められるのです。
龍頭鷁首の舟 今度は、龍頭鷁首の舟について見てみましょう。舳先(へさき。船首)に龍の頭の形を付けたのが⑥「龍頭の舟」、鷁という想像上の鳥の形を付けたのが⑦「鷁首の舟」です。龍はよく水を渡り、鷁はよく飛んで風に耐えるとされ、二隻が一対になって使用されますので、龍頭鷁首と呼んでいます。貴族たちの舟遊びで使用されたり、楽人を乗せて船楽用にされたりしました。この絵で、龍頭の舟に⑧太鼓が乗せられているのは、船楽用であることを示しています。
舟は、⑨棹を差して漕ぎますので、[イ]・[ウ]漕ぎ手を「船差(ふなさし)」と呼び、普通は四人が当たりました。この絵では、一人ずつしか船差がいませんが、それは道長が実検するためだからでしょう。第18回で見ました龍頭の舟には四人の童が船差になっていましたので、ご確認ください。
両舟とも一人くらいしか乗船できないような大きさで描かれていますが、実際は10人から20人ほどが乗れる大きさでした。画面の大きさに合わせるために、この絵では小さめに描かれたのでしょう。絵巻は実際を描くものではないことが、ここでも確認できます。
龍頭鷁首の舟は鑑賞用にもなりますので、舟端に装飾が施されています。かなり剥落していて分明ではありませんが、これも第18回での龍頭の舟と同じく、⑩剣と巴を交えて描く「剣巴」の文様があるようです。その文様の下には、⑪「洲浜形」と呼ぶ文様を染めた幕が垂らされています。この幕は水面を引きましたので⑫「水引」と呼びます。行幸という晴の儀式で使用されますので、水引が取りつけられるのです。
『紫式部日記』の当該本文 道長がこの龍頭鷁首の舟を見たことと、船楽に使用されたことは、『紫式部日記』に次のように記されていて、それを絵画化したことが分かります。
その日、新しく造られたる舟どもさし寄せて御覧ず。龍頭鷁首の生けるかたち思ひやられて、あざやかにうるはし。(略)御輿(みこし)迎へたてまつる船楽いとおもしろし。
【訳】 その行幸当日に、新しく建造された船々をさし寄せてご覧になる。龍頭鷁首の舟が生きている姿を想像させて、目がさめるほどに華麗である。(略)帝の御輿をお迎え申し上げる船楽は、じつにおもしろい。
正式の儀式などに帝など高貴な人をお迎えする場合は、奏楽がされました。道長はその奏楽を船楽として演出したわけです。その為にわざわざ龍頭鷁首の舟を新造させたのでした。この絵は、舟を見る道長という単純な構図ですが、その心情を想像させる絵柄になっているようです。
南池の風景 最後に⑬南池の描かれ方を見ておきましょう。汀は⑭洲浜(入り組んだ入江)に描かれていて、これも実景ではなく装飾的な描法になっています。鷁首の舟の手前には⑮松の木が見え、これも洲浜に植えられています。松は常緑樹ですので、長寿を表します。若宮の将来がここに予祝されているのかもしれません。池の水は釣殿の下まで入り込んでいて、舟が着けられるようです。南池のほとりには、⑯前栽が見えます。細部にもこだわった描き方になっていると言えましょう。