絵巻で見る 平安時代の暮らし

第34回 『源氏物語』「早蕨」段の「中君の京に移る支度」を読み解く

筆者:
2015年2月21日

場面:中君が匂宮の二条院に移る支度をしながら、弁の尼と別れを惜しむところ
場所:八宮邸の寝殿
時節:薫25歳の春二月六日

34_sawarabi_f.png

人物:[ア]袿姿の中君(父・八宮、母・故北の方、匂宮の妻)、25歳 [イ]袿袈裟姿の弁の尼(八宮家の女房で、大君死後に出家。八宮の故北の方の叔父の娘、母は故柏木の乳母)、60歳前後 [ウ][エ][オ][カ]袿姿の女房
室内:①反物 ②元結 ③縫物 ④数珠 ⑤袈裟 ⑥単(ひとえ) ⑦高麗縁の畳 ⑧巻絹 ⑨衣箱 ⑩母屋 ⑪御簾の帽額 ⑫押障子(おししょうじ) ⑬・⑭柱 ⑮桔梗(ききょう) ⑯櫨(はぜ) ⑰薄 ⑱北廂か ⑲五幅四尺の几帳 ⑳几帳の足 野筋 朽木形の五幅四尺の几帳 

絵巻の場面 この場面は、匂宮の妻となっていた[ア]中君が、宇治から京に移る支度をしているところです。中君は宇治を去りがたく思いますが、ここに留まるのは離婚となりますので、そうもいきません。また、匂宮の二条院に移っても、花心(浮気心)のある匂宮ですから、将来の不安はぬぐえません。それに、大君の死後に出家した[イ]弁の尼は、宇治に留まる決意ですので、上京は別離の悲しみとなり、憂愁の念は深まります。しかし、女房たちの思いは別です。華やかな京に移るのですから、心は浮きたっています。

『源氏物語』の本文 それでは、この場面に相当する物語本文を確認しておきましょう。

思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、いとど慰めがたくくれまどひたり。皆人は、心ゆきたる気色にて、物縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふに、いよいよやつして、
 人は皆いそぎたつめる袖のうらに一人藻塩を垂るるあまかな
と愁へきこゆれば、
 塩垂るるあまの衣に異なれや浮きたる波に濡るるわが袖
【訳】(薫の)お気持ちやお話しされた様子を中君に語って、弁の尼は、ますます慰めようもなく悲しみにくれている。女房は皆、満足げな面持ちで、縫物に精を出して、老いて変わってしまった容貌も知らずに、身支度に余念がないが、弁の尼は、いっそう尼姿に身をやつして、
 他の人は皆、着物の袖を裁ち縫いして、移る支度をしているようですが、袖の浦で藻塩を垂らす海人のように、私は涙にくれる尼ですこと。
と悲しみを訴え申しあげると、中君は、
 塩垂らす海人や、涙にくれる尼に異なりましょうか。波に漂い浮かぶ身を思って、涙に濡れる私の袖ですので。

この場面の前で、様子を見に来た薫が帰っていました。薫は弁の尼とも対面していましたので、そのことを中君に報告しているのが、引用冒頭になります。弁の尼は薫と共に、亡き大君を話題にしていましたので、涙にくれたままなのです。それに対して、他の女房たちはどうでしょうか。絵巻で具体的に見ていきましょう。

女房たち 女房は四人描かれています。右端の二人[ウ][エ]は、①反物を畳もうとしています。[ウ]の女房だけは髪を②元結で束ね、きれいな引目鉤鼻ではなく、やや鼻が突き出て、細長の顔ですね。これは老女の表現のようです。第22回「蓬生」段で見ました老女も元結をして、似た顔つきでした。そうしますと、本文にありました「老いゆがめる容貌も知らず」とされた老女房を描いたことになります。

[オ][カ]の二人はそれぞれ対照的です。[オ]の女房は中君に背を向けて、③縫物をしています。これは自分の衣装なのでしょう。口元が緩んでいるようなので、京での生活を楽しそうに思い浮かべているようです。まさに「心ゆきたる気色」になりますね。これに対して、[カ]の女房は中君のほうに向いて、中君と弁の尼との話に耳を傾けている感じです。本文にはなかった物の情理の分かる女房に描いているのかもしれません。

弁の尼 続いて[イ]弁の尼です。髪は尼削ぎで、右手には④数珠、そして⑤袈裟を着けています。顔は[ウ]の女房と同じく細長です。これも老女の表現でしょう。中君の方に身を寄せるようにして、左手は袖で目頭を押さえていますので、大君を追憶し、中君との別離を惜しみ、涙しながら悲しみを訴えているのでしょう。その悲しみは和歌に詠まれています。宇治に残る弁の尼は、この後、中君の異母妹浮舟と薫との仲介をすることになります。

中君の様子 弁の尼に向かい合う[ア]中君も、⑥単の袖を口もとにあてて、憂いに沈んでいます。その視線は、⑦高麗縁の畳の上の、高価な⑧巻絹を入れた⑨衣箱に注がれています。これは先ほど帰った薫の贈物でしょう。京に移ってから着るようにとの薫の心遣いは、中君に、匂宮との夫婦仲がこの先どうなるのかの不安を誘います。夫の邸宅に迎えられることは妻としての喜びになりますが、後ろ盾のない中君には、不安のほうが先立つのです。宇治から離れていくわが身は、浮き漂うような境遇として意識されています。その思いが歌に詠まれ、弁の尼の悲しみに同調するのです。

室内 今度は、室内の様子を確認しましょう。中君のいる所は寝殿の⑩母屋になり、さらに左側にも続いています。この二間分は御簾が巻上げられていることが⑪帽額の痕跡で分かります。中君の手前には畳の⑦高麗縁が見えますが、本来でしたらここが下長押になるはずです。しかし、そうはなっていません。もしかしたら、⑨衣箱を置いたために段差のある下長押ではなく、畳にしてしまったのでしょうか。謎の一つでしょう。

中君の右側には⑫障子が置かれていますが、これまで見たものとは違っていますね。⑬⑭の柱間に一枚だけあって、引き違い式ではありません。これは⑫押障子(「張り込み障子」とも)といい、嵌め込み式で出入りができません。障子には、大和絵で⑮桔梗・⑯櫨・⑰薄などが描かれて画中画になっていますが、季節感としてはどうでしょうか。今は仲春ですので、季節がずれています。絵師が間違えたとも思われませんので、この絵柄には何らかの意味が込められているのかもしれません。中君は前年の秋八月に匂宮と結婚していますので、その時点を暗示させているのでしょうか。あるいは、もの悲しい秋の草花を描くことで、中君の悲哀を示唆しているのでしょうか。これも謎の一つと思われます。

画面の構図 最後に画面の構図を確認しましょう。⑫押障子は壁の役割を果たしますので、この奥はかつて八宮が仏間としていた寝殿西面になるようです。そうしますと、画面は寝殿を北から見た構図となり、女房たちがいる所は⑱北廂となります。女房の居場所ともなる北廂は、京に移る支度をするのにふさわしいと言えましょう。

この廂に置かれた、模様の見られない⑲五幅四尺の几帳と⑬柱とが境界のようになっていて、画面が左右に区画されています。この几帳には⑳足が見え、野筋が折り返されていますので裏側となり、その右側が女房用の空間となることを示しています。京に移る支度に余念のない女房たちの様子になります。しかし、几帳の左端にいる[カ]女房だけは、境界上にいるようで、中君のほうに向いています。

34_sawarabi_f.png

廂の左側に置かれた朽木形の五幅四尺の几帳は表側を見せていて、中君から尼姿の弁の尼を隠す働きをしています。京に移る門出に尼姿は不吉ですので、几帳の陰にいる訳です。ここに中君との隔たりを見る必要はないでしょう。弁の尼のいる廂と、中君のいる母屋は、畳でつながっていますので一体的なのです。そして、画面右側とは違って、こちらは京に移る悲しみの場となっています。画面を左右に分けて、見事に対照化していると言えるでしょう。これによって、孤独な中君を暗示しているのだと思われます。

筆者プロフィール

倉田 実 ( くらた・みのる)

大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず邸宅、婚姻、養子女など、平安時代の歴史的・文化的背景から文学表現を読み解いている。『三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『狭衣の恋』(翰林書房)、『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園 平安文学と隣接諸学1』(編著、竹林舎)、『王朝人の婚姻と信仰』(編著、森話社)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)など、平安文学にかかわる編著書多数。

■画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年では『三省堂国語辞典』の挿絵も手がける。

『全訳読解古語辞典』

編集部から

三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員の倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載。次回は、「宿木(一)」を取り上げます。現存『源氏物語絵巻』で唯一、内裏の建物の内部が描かれている場面です。どうぞお楽しみに。

※本連載の文・挿絵の無断転載は禁じられております