場面:今上帝と薫が囲碁をするところ
場所:内裏・清涼殿の「朝餉間(あさがれいのま)」と「御手水間(おちょうずのま)」
時節:薫24歳の秋
人物:[ア]冠に衵襲(あこめがさね)姿の今上帝(父・朱雀院、母・明石中宮)、45歳 [イ]冠直衣姿の中納言薫、24歳 [ウ][エ]裳唐衣姿の女官
室内:①朝餉間 ②・柱 ③壁 ④副障子(そえしょうじ) ⑤組紐 ⑥打敷(うちしき) ⑦二階棚 ⑧火取 ⑨泔坏(ゆするつき) ⑩打乱箱(うちみだりのはこ) ⑪繧繝縁の筵(うんげんべりのむしろ) ⑫大床子(だいしょうじ) ⑬朽木形の几帳 ⑭厨子か ⑮御手水間 ⑯上長押 ⑰二階厨子 ⑱箏の琴 ⑲箱 ⑳冊子 巻物 引き違え式の障子 色紙型 枢戸(くるるど) 方立(ぼうだて) 高麗縁の畳 繧繝縁の畳 大袿 碁盤 碁笥 碁笥の蓋 檜扇 裳紐
絵巻の場面 この場面は、帝が普段生活する清涼殿の西廂に区切られた朝餉の間で、[ア]今上帝と[イ]薫が囲碁をするところを描いています。清涼殿は東側が公的に使用され、西廂は帝の私的な場となり、部屋が北から御湯殿(御湯殿上とする説もある)・御手水間・朝餉間・台盤所(だいばんどころ)・鬼間(おにのま)に分かれていました。普段、御手水間は帝が朝に調髪し手を洗う所、朝餉間は帝が朝食をとり装束を改める所として使用されます。絵巻の画面は西側から見た構図で、右側が南になります。
なお、絵巻では清涼殿として描かれていますが、物語本文では帝の愛娘の女二宮が住む飛香舎(ひぎょうしゃ。「藤壷」とも言う)で碁を打っているように読めます。しかし、絵師は清涼殿と理解したと思われますので、この通りに見ていきます。
『源氏物語』の本文 それでは、この場面に相当する物語本文を確認しておきましょう。
「中納言の朝臣こなたへ」と仰せ言ありて、参りたまへり。げに、かくとり分きて召し出づるもかひありて、遠くよりかをれる匂ひよりはじめ、人に異なるさましたまへり。(略)碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。いつもかやうに、け近くならしまつはしたまふにならひにたれば、さにこそはと思ふに、「よき賭物(のりもの)はありぬべけれど、軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは」などのたまはする御気色いかが見ゆらん、いとど心づかひしてさぶらひたまふ。さて打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。
【訳】「中納言の朝臣こちらへ」と帝の仰せ言があって、薫が参上なさる。なるほど、こうして特別に召し出されるだけのことがあって、遠くから香ってくる匂いをはじめてとして、人よりすぐれた様子をしておられる。(略)碁盤をお召し出されて、御碁の相手に薫をお召しになる。いつもこのように、お側近くに親しくお召しなさるのが例になっているので、薫は今日もそうであろうと思っていると、「よい賭物(かけもの)がありそうだけれど、軽々しくは渡せそうにないので、他に何を賭けようか」などとおっしゃるご様子をどのように見えたのであろうか、薫は大層心遣いして控えておられる。そうしてお打ちになると、三番に数一つ帝が負け越しあそばされた。
帝が薫を召したのは、愛娘女二宮の婿候補と考えていたからです。帝が碁の賭物によいものがありそうだと言うのは、娘を与えたいとの意を匂わせたのです。しかし、軽々しく結婚を許すわけにもいきませんので、それとは別に何を賭けようかとしたのでした。この帝の言葉は、どういう訳か絵巻の詞書では省略されています。碁の勝負は薫の勝となり、前栽に咲く菊の一枝が与えられました。花は女性の例えになりますので、これでいずれ娘を許そうとの意を含ませたのでしょう。二年後にこの結婚は実現します。
室内 それでは、絵巻を見ていきましょう。この画面は、現存『源氏物語絵巻』で唯一内裏の建物内部が描かれていて貴重ですので、室内の様子から見てみましょう。画面右側の二間が①朝餉間です。奥の②柱間の③壁の下部に見えるのが④副障子[注1]で、水辺に飛ぶ鳥が大和絵で描かれています。壁の向こうは母屋の夜御殿(よるのおとど。寝室)になります。画面右端には錦の⑤組紐(一部剥落)付きの⑥打敷(敷物)をかけた⑦二階棚があり、上段に⑧火取(香炉)と⑨泔坏[注2]、下段に⑩打乱箱[注3]が置かれています。向かい側には、帝だけが使用する⑪繧繝縁の筵を敷いた、食事をとる為の椅子となる⑫大床子と、⑬朽木形の几帳が見えます。大床子の前にある⑭物は、よく分かりません。もしかしたら、朝餉間にあったとされる一双の小さい厨子なのかもしれません。ただしここは三脚描かれています。
画面左側が⑮御手水間で、⑯上長押の下には、奥に一双の⑰二階厨子があり、上段に⑱箏の琴、下段には手前から一双の⑲箱(手箱か)、⑳冊子、巻物が置かれています。厨子に並んで引き違え式の障子(襖)があり、色紙型が貼られ、山岳の風景が大和絵で描かれています。画面左上は枢戸[注4]で、この横には方立(戸の両側に添える小柱)と柱が見えます。この戸は本来、④副障子の左側に位置して夜御殿に通じていましたので、ここに描くのは間違いになります。
囲碁する二人 続いて、囲碁する二人を見てみましょう。奥が[ア]今上帝で、高麗縁の畳の上に繧繝縁の畳を重ねて坐り、大きく描かれています。大袿を三枚はおり、下に小口の袖の単衣を着ていて、くつろいだ姿です。繧繝縁の畳に坐ったこの衣装は、帝にしか許されない姿になっています。さらに帝が上位であることを示すことが描かれていますが、お分かりでしょうか。答は、帝が黒石になることです。当時、上位の者が黒石を使うことになっていました。内裏では、おのずと身分関係が視覚的に明確になるわけです。
一方の[イ]薫は冠直衣を着用し、うつむきかげんで、かしこまった姿勢でいます。内裏では、三位以上で勅許を得た者だけが、束帯ではなく直衣で参内することができました。薫は中納言で、従三位相当ですので、この衣装でいいわけですが、これ以上にくつろげません。帝への親近ぶりとともに、話題が女二宮にかかわりますので、一層かしこまった姿が描かれていると言えましょう。
この二人の間にあるのが碁盤ですが、どこか変ではありませんか。碁盤の脚が置かれている所に注意してください。帝側は重ねられた繧繝縁の畳の上にあります。しかし薫側には、その畳はなく、この分だけ低くなります。これでは碁盤は傾いてしまいますね。絵師のミスでしょう。また、碁笥の黒石は山盛りになっているようで、これも変ですね。少なくなっているはずです。なお、碁笥の上方にあるのは碁笥の蓋です。
女官たち この二人の様子に注意しているのが、御手水間にいる[ウ][エ]二人の女官でした。手前の[ウ]女官は単衣を口元にあて、左手に檜扇を持ち、障子を少し開け、⑬几帳の陰からのぞき見しています。芳香を漂わせる貴公子薫を見ているのでしょう。奥の[エ]女官は聞き耳を立てています。帝と薫が交わす会話を聞いているわけです。女二宮のことが暗示される会話ですので、興味津津なのでしょう。この女官には、裳を結ぶ裳紐が描かれています。
画面の構図 最後に画面の構図を確認しましょう。画面は左右に分かれた構図となっています。画面右側は本文によっていますが、左側の女官のことは物語には語られていません。女房たちは本文になくても絵巻では多く描かれますので、その例として理解できます。しかし、ここは女二宮の結婚が会話で匂わされていたことと関係しているでしょう。そうした話であることを聞き耳の女官で表し、女二宮の婿候補となる薫の素晴らしさをのぞき見で表していましょう。結婚が主題であることをこうした構図で暗示したのだと思われます。
注
- 壁に添える装飾用の障子。取り外しが可能。
- 鬢(びん)の毛をかくための水入れ。画面に見えるのはその台の脚。
- 手拭入れ用の箱であったが、整髪具なども入れられた。
- 戸をその構造から言う語。扉の端の上下に突起をつけ、それを穴に差し込んで開閉させる戸。寝殿造の妻戸は端にある戸の意で、構造的には枢戸になる。
*2017年2月22日に一部、修正を行いました。