場面:敦成親王の「五十日の祝(いかのいわい)」。
場所:土御門邸(つちみかどてい)の寝殿(しんでん)。
時節:寛弘5年(1008)11月1日。
人物:[ア]小袿姿の中宮・藤原彰子(道長の長女)、21歳。[イ]敦成親王(あつひらしんのう。父一条帝の第二子。後の後一条帝。彰子には第一子)。[ウ]裳唐衣衣装の女房、大納言の君。[エ]・[オ]・[カ]裳唐衣衣装の女房、弁の内侍・中務の命婦・小中将の君か。[キ]裳唐衣衣装の女房、紫式部か。
室内:①御簾(みす) ②・③・⑪几帳 ④几帳の野筋 ⑤大文の高麗縁(おおもんのこうらいべり)の畳 ⑥茵(しとね) ⑦地敷(じしき) ⑧・⑬・⑭折敷高坏(おしきたかつき) ⑨小文の高麗縁の畳 ⑩台盤 ⑫几帳の土居(つちい) ⑮帽額(もこう) ⑯御簾 ⑰・⑳柱 ⑱上長押(かみなげし) ⑲釘隠(くぎかくし) 細長(ほそなが) 裳
絵巻の場面 この絵は何を描いているのでしょうか。画面上部に抱かれた[イ]赤子が描かれていますので、この子に関することのようですね。これは、『紫式部日記』にある、一条帝の中宮彰子が生んだ若宮、敦成親王の「五十日の祝」を描いています。この赤子が敦成親王です。五十日の祝とは、生後五十日目にする祝で、「百日(ももか)の祝」もされました。新生児の死亡率が高かったので、五十日・百日がたてばひと安心し、長寿を願ってお祝がされたのです。祝の中心は、乳児に餅を含ませることですが、そのことは後の回で扱います。ひとまず、五十日の祝であることを確認して、次に場面の構図を見てみましょう。
場面の構図 この場面、吹抜屋台の技法によって描かれ、②・③・⑪の几帳と⑱上長押[注1]とによって、三つの空間に区切られています。一番重要な空間が画面中央になりますが、画面左下と、右下にも意味があります。場所は、藤原道長の土御門邸[注2]の寝殿で、『紫式部日記』によりますと、左下が東廂となりますので、中央部は母屋の東側になり、画面は、寝殿の北東から眺めている構図となります。
場面の中央―中宮と若宮の御膳 それでは画面の中央部の母屋を詳しく見ていきましょう。⑤大文の高麗縁の畳[注3]の上に敷いた⑥茵[注4]に座っているのが[ア]中宮彰子ですが、顔が描かれていません。これは、天皇や中宮などの最も高貴な人の顔は、多くの場合、描かないという作法があったからです。中宮が抱いている若宮は、幼児の衣服の㉑細長にくるまれていますが、頭部を見てください。坊主頭になっていますね。当時は、生後間もなく頭髪を削ぐ「産剃(うぶぞり)」をして、三歳くらいから髪を伸ばす「髪置(かみおき)」をしました。若宮は生後五十日ほどですので、坊主頭になるのです。
中宮の左側に斜めに見えるのが、食器を載せる⑩台盤[注5]です。若宮の手前にあるのが⑦地敷[注6]で、よく見ますと松や鶴が描かれています。松鶴は、長寿のたとえとなるもので、五十日の祝のために用意されたのでしょう。地敷の上には、⑧折敷高坏[注7]が四つ見え、そのうち上部一つだけはよく分かりませんが、箸と箸台でしょうか。残りの三つには、食べ物を山盛りにした皿が並んでいます。これらは、若宮のお祝の食事となる「御膳(おもの)」で、実際に食べるわけではありませんが、いずれも小さく作られて、雛遊びのようです。
この四つの折敷高坏は、地敷の左側に寄っていますが、なぜでしょうか。それは、他にも運ばれるので、右側が空いているのです。[エ]・[カ]の女房を見てください。それぞれ手で⑬・⑭の折敷高坏を捧げ持っています。六つ揃えるのが作法でした。
場面左下と右下 次に、左下の空間を見てみましょう。
剥落していますが、⑯御簾が巻き上げられていますね。これは、御膳を運ぶ女房のために上げてあるわけです。母屋とは、空間的につながっているのです。このことは、右下の空間との違いになります。
右下の空間は、②・③の几帳によって隔てられています。几帳は、隙間をあけず一部が重ねられています。①の御簾の背後に②の几帳の帷子(かたびら)が透けて見えています。さらに几帳があるのでしょう。左下の空間は母屋とつながり、右下は隔絶されています。そして、右下には[キ]女房が一人だけでいます。どうやら、この女房が紫式部になるようです。
『紫式部日記』には、理由は分かりませんが、女房たちが御膳に奉仕する様子を、「自分は奥にいて、詳しくは見ておりません」と記しています。絵巻は、このように記した紫式部の姿を描いたのだと判断できます。『紫式部日記』には、宮仕えに馴染めず、孤独な紫式部自身のことも記していますので、絵巻の作者は、そのことも読みとったのでしょう。几帳で隔絶された紫式部には、どことなく孤独の影があるようです。それは、紫式部と他の女房との姿の違いにも表れています。
女房たちの姿 では、姿の違いは、どこにあるでしょうか。衣装はいずれも女房の正装、裳唐衣衣装ですので[注8]、髪形の違いに気づきます。[ウ]~[カ]の女房は、頭頂部が盛り上がっています。これは、髪を結いあげて元結(もとゆい。紐)で結び、釵子(さいし。かんざしの一種)を付けた「髪上げ姿」になります。晴の儀式や陪膳(はいぜん、または、ばいぜん。食事のお世話)などに奉仕する際にします。若宮に直接かかわるのは、[ウ]の女房ですが、他の女房も若宮の御膳に奉仕するために、この姿になっているのです。
一方の紫式部の髪形は、普通の垂髪です。陪膳には奉仕していないのです。この絵は、祝の「御膳参り」を描くと同時に、孤独な紫式部の姿も暗示していると言えましょう。
参考―『紫式部日記』の当該本文
御帳の東の御座(おまし)の際に、御几帳を奥の御障子より廂の柱まで、隙(ひま)もあらせず立てきりて、南面(みなみおもて)に御前の物は参り据ゑたり。西に寄りて大宮の御膳、例の沈の折敷、何くれの台なりけむかし。そなたのことは見ず。御まかなひ宰相の君讃岐、取り次ぐ女房も、釵子、元結などしたり。
若宮の御まかなひは大納言の君、東に寄りて参り据ゑたり。小さき御台、御皿ども、御箸の台、洲浜なども、雛(ひひな)遊びの具と見ゆ。それより東の間の廂の御簾すこし上げて、弁の内侍、中務の命婦、小中将の君など、さべいかぎりぞ、取り次ぎつつまゐる。奥にゐて、詳しうは見はべらず。
【訳】御帳台の東側の御座の際に、御几帳を北の御障子から南廂の柱まで、隙間もないように立てきって、母屋の南面に御食膳はお供え据えている。西側に寄って大宮(彰子)の御膳があり、例のように沈の折敷、何やかやの御膳台であったであろう。私(紫式部)は、そちらのことは見ていない。ご陪膳役は宰相の君讃岐、取り継ぐ女房も、釵子、元結などしている。
若宮(敦成親王)のご陪膳役は大納言の君、東側に寄ってお供え据えている。小さな御膳台、幾つかの御皿、御箸の台、州浜なども、雛遊びの道具のように見える。そこから東の間の廂の御簾を少し上げて、弁の内侍、中務の命婦、小中将の君など、しかるべき女房だけが、取り継ぎ、取り継ぎしてお供えする。私は、奥の北廂に座っていて、詳しくは見ておりません。
注
- 柱と柱との間に取り付ける、上方にある横木。下方は下長押。
- 藤原道長の邸宅で、上東門邸、京極邸などとも呼ばれた。
- 「高麗端」とも書く。縁に花文を施した畳。
- 「褥」とも。敷物のことで、ここは座布団用にしている。
- 赤や黒の漆塗りで、四脚・横長の机状の食器を載せる台。
- 「地鋪」とも。下敷き。畳や筵(むしろ)の類。ここは、後者。
- 檜(ひのき)や香木などの薄板で作った四角い盆に脚が着いた台。
- [ウ]の女房は、垂髪が裳の下に入れられていて、これは鎌倉時代初期の様式と考証されている。