場面:稲荷祭(いなりまつり)で神輿の遷幸がされるところ
場所:平安京の七条大路
時節:四月上卯日
人物:[ア]印地打ちに声援を送る人たち [イ]舞人 [ウ]下部 [エ]・[サ]・[シ]・[ス]楽人 [オ]・[カ]・[キ]唐櫃をかつぐ人 [ク]・[ケ]狩衣姿の神職 [コ]口取り [セ]大幣をかつぐ男童 [ソ]・[タ]・[チ]杉の枝をかつぐ水干姿 [ツ]駕輿丁 [テ]藺笠の女 [ト]市女傘の女 [ナ]僧侶 [ニ]男童 [ヌ]・[ノ]荷を持つ者 [ネ]尼か [ハ]青年 [ヒ]女童
神輿関係など:①七条大路 ②賀茂川 ③一基目の神輿 ④三基目の神輿 ⑤二基目の神輿 ⑥切妻屋根 ⑦千木 ⑧屋形造の神輿 ⑨・㉕幡(ばん) ⑩幡頭 ⑪幡身 ⑫幡手 ⑬幡足 ⑭八稜鏡 ⑮鳥居 ⑯・㉖円鏡 ⑰狐か ⑱囲垣 ⑲剣巴(けんともえ)文様の台輪 ⑳腰幕 ㉑高御座(たかみくら)形の鳳輦の神輿 ㉒露盤 ㉓大鳥の鳳凰 ㉔蕨手 ㉗帷(とばり) ㉘高欄 ㉙引綱 ㉚担ぎ棒 ㉛鈴
衣装・持ち物など:㋐扇 ㋑袴の股立(ももだち) ㋒裲襠(りょうとう)装束 ㋓・㋨鳥甲 ㋔鼻高の面 ㋕鉾 ㋖鉦鼓(しょうこ) ㋗鈴 ㋘荷太鼓(にないだいこ) ㋙桴(ばち) ㋚・㋧杉 ㋛注連縄 ㋜唐櫃 ㋝・㋬・㋷朸(おうご) ㋞冠 ㋟烏帽子 ㋠笏 ㋡篳篥(ひちりき) ㋢横笛 ㋣紙垂(しで) ㋤紙を挟んだ大幣 ㋥円形の大幣 ㋦格子状の大幣 ㋩袍 ㋪虫垂衣(むしたれぎぬ)の藺笠 ㋫・㋵市女傘 ㋭竹籠 ㋮板葺棟割長屋 ㋯土間 ㋰木臼 ㋱板 ㋲網代下見 ㋳半蔀 ㋴網代壁 ㋶数珠 ㋸曲物 ㋹毛皮か ㋺下見板
はじめに 前回は祇園御霊会を採り上げましたので、今回は稲荷神社(今日では伏見稲荷大社)の稲荷祭を見ることにします。場面は、前回と同じく神輿遷幸の行列になります。
稲荷神社 最初に、旧国郡名で山城国紀伊郡深草郷(現在の京都市伏見区)に鎮座する稲荷神社について触れておきます。始めは五穀をつかさどる稲荷神を祀った神社で、渡来系氏族、秦氏の氏神でした。平安遷都後には下京の住民たちの産土神(うぶすながみ。生まれた土地の守り神)として意識されるようになり、それ以外の人々にも尊崇されました。
特に二月初午(はつうま)の日には、稲荷神社の杉を「験(しるし)の杉」として持ち帰り、枯れなければ願いが叶うとされる信仰が定着し、多くの人が参詣しました。
当初は、山口に下社、山中に中社(本社)、山上に上社の三座でしたが、12世紀後半には、下社摂社田中社と中社摂社四大神社(しのおおかみしゃ)が加わり五座となりました。この事情は和歌などに詠まれていますので、見ておきましょう。
稲荷山験の杉の年ふりて三つの御社神さびにけり(『千載集』雑下・1178・僧都有慶)
稲荷をば三つの社と聞きしかど今は五つの社なりけり(『梁塵秘抄』二・515)
特に訳は必要ないですね。前者の「験の杉」を詠んだ有慶は、986~1071年にかけての僧。後者の歌謡集『梁塵秘抄』は後白河院(1127~1192)の撰です。平安時代末期には五社になっていたことが分かりますね。
稲荷祭 稲荷神社が最も賑わったのが稲荷祭の折でした。京七条の住民たちなどによって始められたとされています。三月中午日に神輿が稲荷神社から八条坊門猪熊と七条油小路の御旅所に分かれて移御し、四月上卯日に遷幸しました。この遷幸の儀が稲荷祭でした。
人々が見物する場所は七条大路とほぼ定まっていましたので、画面もその大路になります。行列は、平安時代末には五基の神輿を中心として、馬長(うまおさ)・騎馬田楽・獅子舞・散楽(さんがく)・傀儡(くぐつ。操り人形を使う芸)・猿楽(さるがく)などの芸能者も加わるようになりました。
遷幸の行列 それでは①七条大路を通って稲荷神社に遷幸する行列を見ていきましょう。画面右下に見えるのが②賀茂川です。スペースの関係でわずかしか載せられませんでしたが、右上方向から流れて来ています。画面上が北、右が東になります。行列は七条大路を東進して京外に出て賀茂川を渡り、やがて右折して稲荷神社に到りました。
なお、画面右上で㋐扇を振り上げている[ア]人たちは、川の両岸で始まった印地打ち(石合戦。第65回参照)に声援を送っているのです。祭の日は、喧嘩がつきものでした。
その川下では、今しも行列の二人が賀茂川を渡ろうとして、共に㋑袴の股立を取っています。㋒裲襠装束(第66回参照)に㋓鳥甲をかぶり、㋔鼻高の面を持つのは舞楽の散手(さんじゅ)をつとめる[イ]舞人で、㋕鉾をかつぐのは[ウ]下部です。
この後ろは㋖鉦鼓と㋗鈴も吊り下げた㋘荷太鼓で、[エ]楽人が㋙桴で打ち鳴らしています。荷太鼓の上側に頭部が消えて見える[オ]人は、四隅に㋚杉を立て㋛注連縄をめぐらした㋜唐櫃を㋝朸(天秤棒)で前後にかついでいます。画面には同じく[カ][キ]唐櫃をかつぐ人が、③一基目と④三基目の神輿のそれぞれ後ろに描かれています。神饌(供物)が入っているのでしょう。
神輿は後でみることにしますので、さらに他の供奉する人たちを見ていきましょう。一基目の神輿の横で騎乗し、㋞冠や㋟烏帽子をかぶっているのは、[ク][ケ]狩衣姿の神職でしょう。⑤二基目の神輿の横にいるのは楽人たちです。[コ]口取りに馬を曳かせている[サ]楽人は両手に㋠笏を持っていますので、笏拍子の担当になります。その後ろの[シ]楽人は㋡篳篥、さらにその後ろの[ス]楽人は㋢横笛の担当ですね。
二基目の神輿に続くのは、三種の大幣をかつぐ人たちです。いずれにも㋣紙垂が下げられています。五本見えるのは、上部に折り畳んだ㋤紙を挟んだ大幣です。また、㋥円形の大幣、㋦格子状の大幣もあります。大人に混じって[セ]男童もかついでいます。
三基目の神輿の前と横には、㋧杉の枝をかつぐ[ソ][タ][チ]水干姿の三人が見えます。杉は稲荷神社のシンボルですので、稲荷祭の風情となりますね。
神輿の構造 続いて神輿を見てみましょう。前回見ました祇園御霊会の神輿とは違っています。画面では三基しか載せられませんでしたが、この絵巻では五基が描かれていています。いずれも㋨鳥甲に㋩袍を着けた楽人姿の[ツ]駕輿丁が四人でかついでいます。
神輿の構造は④三基目が違うだけで、他は同じですので③一基目で確認します。⑥切妻屋根に⑦千木を立てた⑧屋形造の神輿になっているところが、前回の神輿と大きく違っています。神輿はその神社の形を表しますので、昔日の社はこんな屋根だったのでしょう。
軒先から四隅に下げられているのは、主に寺院で飾られる⑨幡です。ここだけ二基目で見ますと、⑩幡頭が三角形、中央部の⑪幡身が格子状の長方形、その左右に⑫幡手、下部には⑬幡足が付けられます。
屋根の下は、前後と左右では別の形になっているところも前回のとは違っています。前後には八角の⑭八稜鏡が下がり、⑮鳥居があります。左右は二つの⑯円鏡で鳥居がありません。しかし、四面とも中央部に見えるのは、稲荷神の使いとなる⑰狐でしょう。神社につきものの狛犬ではないようです。四隅にあるのは、⑱囲垣になります。
土台となる⑲台輪には剣巴文様の飾りが施され、⑳腰幕が下げられています。
次は④三基目です。六角の㉑高御座形の鳳輦の神輿になっています。㉒露盤の上に㉓大鳥の鳳凰が据えられています。軒下の六隅から上部に延ばされる㉔蕨手には、祇園御霊会の神輿にあった小鳥が見えません。蕨手の元から下げられているのは、先に見ました㉕幡ですね。六面それぞれに㉖円鏡が見えます。鏡の後ろは㉗帷になっているようです。外周には㉘高欄がめぐらされています。
これらの神輿では、㉙引綱が㉚担ぎ棒に結わえられており、人々は引いていません。一基目の引綱だけに㉛鈴が下げられていますが、他の四基にもあったと思われます。
神輿の順 五基の神輿の順番には、二つの説があります。田中社→上社→中社→下社→四大神社とする説と、田中社→上社→下社→中社→四大神社とする説です。すなわち、鳳輦を中社とするか下社にするかの別になります。前者の説は中社が本社と見られていたこと、後者は江戸時代から今日まで下社が鳳輦であることが根拠になります。稲荷神社は、戦国時代に衰微していたのが再興された経緯がありますので、江戸時代からの形で考えることに問題があるかもしれません。
見物人たち 祭礼には必ず見物する人々が集まりますので、今回もその様子を見ておきます。画面右上には地面に坐って見物する人々がいます。㋪虫垂衣の藺笠や㋫市女傘の [テ] [ト]女、[ナ]僧侶、[ニ]男童などは両手を合わせて拝んでいます。また、㋬朸に㋭竹籠を結わえた[ヌ]荷を持つ者もいます。仕事の途中に見物としゃれこんだのでしょう。
㋮板葺棟割長屋からも住人が見物しています。長屋中央の出入り口の㋯土間には、二つの㋰木臼の上に㋱板を置き、即席の桟敷にして見物する一家が見えます。生活の知恵ですね。長屋の左側でも㋲網代下見の上部の㋳半蔀を上げて男女が見物しています。
長屋の外でも人々が坐り込んでいます。これも一家でしょうか。画面左の㋴網代壁の前にも人々がいます。㋵市女傘の女性は[ネ]尼なのでしょう、手には㋶数珠が下げられています。その右横には㋷朸に下げた㋸曲物と㋹毛皮のような[ノ]荷を持つ男がいます。近在からわざわざ見に来ているのです。
㋺下見板の家でも一家総出で見物しています。[ハ]青年、[ヒ]女童がいることが分かります。七条大路の民家では、稲荷祭見物のために、室内を工夫している様子が窺われます。
絵巻の意義 前回同様、今日に続く祭の原型に近い様子が描かれているところに、この絵巻の意義があります。また、神輿の構造も当時の様子を伝えていて貴重です。それというのも、祭は当時の人々にとっても大切な行事であったので描かれたからということになりましょう。