シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから―

第三十二回:治癒の方法② イヌの毛の力

筆者:
2020年2月14日

白色のトナカイの毛皮でつくった衣服を着て踊る若者たち。裾には白犬の毛皮はついていない
(2016年3月ヤマル・ネネツ自治管区にて筆者撮影)

前回は筆者が凍傷になったときの対処方法について紹介しました。もうひとつ筆者が現地で聞いた独特な怪我の治癒方法があります。それはイヌの毛や毛皮を使うものです。イヌはハンティにとって狩猟や牧畜の仕事仲間であるだけでなく、神聖な動物でもあります。オビ川沿いにあるテェギという場所の神の化身がイヌとされており、イヌの毛や毛皮には不思議な力があると考えられています。

イヌの毛足は長く丈夫で、密生し、たいへん暖かく、毛皮の質が良いので、他の極北地域にはイヌの毛皮で帽子等の防寒衣類を作る人々がいます。しかし、ハンティにとってイヌは神聖な動物であるため、彼らが自らイヌを屠畜してその毛皮を利用することはありません。かといって、ハンティがまったくイヌの毛皮を利用してこなかったわけでもありません。彼らにとってとりわけ白色の犬の毛皮は富の象徴でもありました。ソ連時代に集団化が本格的に始まる20世紀半ばくらいまで、トナカイをたくさん所有していた裕福な男性は、何枚もの白犬の毛皮を白色のトナカイ毛皮の衣服の裾部分に付けていました。殺してはいけないイヌの毛皮をどうやって手に入れていたかというと、周辺の異なる信仰を持つ民族と交易してイヌの毛皮を手に入れていたそうです。このように、イヌの毛皮は、質の面でも富の象徴の面でも価値があると考えられてきました。

さらに、イヌの毛や毛皮には治癒の効果があるとされています。屠畜して皮を利用することはできないので、換毛期に自然に抜け落ちる毛を利用します。村には飼い主がいない野良犬がたくさんうろついているので、それらの毛を集めて、毛糸にして靴下などを編みます。ハンティは「腰や足が痛むときに、イヌの毛糸の編み物を巻いて当てておくと、改善する」といいます。あるハンティのおばあさんは、兄が左足を痛めたときにイヌの毛糸で足に当てるものを編んでプレゼントしたそうです。それを兄はいつも身につけていたところ、徐々に痛みが和らいでゆき、治ったそうです。

ある村の船着き場の野良犬たち。村にいくら野良犬がいても処分されない(2018年8月)

本連載の第12回では、森の生活や仕事の仲間としてのイヌについて書きました。ハンティにとって、イヌはとても身近な存在であり、かつ土地の神であり、さらにその毛皮は富の象徴や治癒としても価値があります。本当は毛皮を利用したいけれど、進んで利用できないという欲望と制限のなかで、イヌの毛が治癒に利用されているようです。

ひとことハンティ語

単語:Щит ма ӑнт уйәтӆэм.
読み方:シット マー アントゥ ウイアトゥレン。
意味:それは分かりません(私はそれを知りません)。
使い方:何かについて尋ねられて、分からないときに使います。

筆者プロフィール

大石 侑香 ( おおいし・ゆか)

国立民族学博物館・特任助教。 博士(社会人類学)。2010年から西シベリアの森林地帯での現地調査を始め、北方少数民族・ハンティを対象に生業文化とその変容について研究を行っている。共著『シベリア:温暖化する極北の水環境と社会』(京都大学学術出版会)など。

編集部から

今回はイヌとその毛皮にまつわる話でした。イヌの毛を利用した治癒法は患部を温めるという合理的な効果はもちろんですが、神聖なイヌの毛を使用する、という精神的な効果もあるようですね。ではネコに関しても何かあるのか疑問に思い大石先生に尋ねたところ、「黒猫は別の場所で神の化身とされ伝説もありますが、ネコの毛皮は全く使われていないようです」、と回答をいただきました。興味深いですね。

次回の更新は3月13日を予定しています。