フィールド言語学への誘い:ザンジバル編

第9回 フィールドワーカーの仕事(その1)

筆者:
2018年7月20日

言語調査をしているフィールドワーカーの仕事とは具体的にどのようなものなのでしょうか?「言語学者の仕事は言語の研究をすることで、フィールドではそこで話される言語の調査をしている」と言われても、なんだか難しく聞こえるばかりで、実際に何をやっているのかイメージするのは難しいですよね。でも、「○○語の勉強」と聞くとどうでしょう。ほとんどの人は、(実際に習得できたかは別にして)中学校や高校で英語の勉強をしたことがあるでしょう。あるいはNHKの語学講座をみたことがある人も少なくないでしょう。フィールドワーカーが、言語調査と称してやっていることは、皆さんにも馴染みのあるこの「○○語の勉強」と言い換えることができるかもしれません。ただし、フィールドワーカーの○○語の勉強には教科書がありません。発音や文法規則を解説してくれる先生もいません。用意されているのはその言語を使って暮らしている話者だけです。この話者は、その言語を話すことはできるけれど、「アクセント」「複数形」「3人称単数」「過去形」などという専門用語を使って、その言語を説明することなどできません。仮に、いくつかの用語を知っていたとしても、その用語を使って正しく言語の解説ができる話者などというのは皆無です。そのことは、「太郎が来た」と「太郎は来た」という文の助詞の「は」と「が」の使い分けをうまく説明できる日本語話者などほとんどいないことからも、容易に想像できるでしょう。

フィールドワーカーはどのように「○○語の勉強」をしているのでしょうか?今回と次回で、フィールドワーカーの言語習得術を紹介しながら、言語調査の一部をみなさんにお見せしたいと思います。今回のテーマは「発音」です。

言語の訓練は、話者の発した言葉をひたすらオウムのようにマネるところから始まります。レコーダーを回している最中にでてきた語や文だけでなく、普段の生活でも、気になった表現はマネをします。こうやって練習をしていると、自分ではうまくマネたつもりでも、話者に通じないことがしばしばあります。この通じない原因は、ほとんどの場合、発音にあります。

こうした場面に遭遇したら、まず、通じなかった語を何度も話者に発音しなおしてもらい、問題となる音を見つけ出しましょう。普段通りの発音で正確な聞き取りが難しいのであれば、ゆっくり発音してもらうのもよいでしょう。ただし、話者に発音してもらうときは、耳で音を聞くだけでなく、目で口の動きを観察しなくてはなりません。これは、唇や舌の動きというのも、音の違いを生み出す要因となるからです。

私が実際に調査で聞いた(/見た)音のうち、発音をマネするのが難しかったものをひとつ紹介しましょう。スワヒリ語トゥンバトゥ方言の「ラ」という音は、日本語のラ行音に近い音のように聞こえますが、舌のどの部分を使うかが日本語のラ行音とは異なります。日本語のラ行音が、舌の先を上の歯茎の少し後ろ側につけて発音されるのに対して(みなさんも自分の舌の動きを確認してみてください)、トゥンバトゥ方言の「ラ」は、舌のもう少し後ろ側を上の歯茎の後ろ側につけて発音されます。このため、発音の際は、舌の先が口の外に突き出されて、あかんべえをしたときのような恰好になります。私のインフォーマントは、この音を「舌を突き出す音」と説明してくれたのですが、私はなかなか正確にマネすることができませんでした。それは、この音の発音で重要なことが、舌を突き出すことではなく歯茎につける舌の位置だ、と気づくのに時間がかかったからです。

馴染みのない発音に出くわしたら、口の動きを調節しながら何度も発音してみて、インフォーマントに聞かせましょう。そして〇(まる)をもらったら、そのときの自分の口の動きを正確に記録しておきましょう[注1]。フィールドワーカーはこんな風に、難しい発音を習得しています。

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  1. 発音を記録する際は、一般に国際音声記号 (International Phonetic Alphabet) が用いられる。国際音声記号は、世界のあらゆる言語の音を表記するために、定められた記号である。ちなみに、トゥンバトゥ方言の「ラ」は、国際音声記号で、[ l̻ ] と表記される。以下のウェブサイトでは、記号としてどのようなものがあり、それぞれどのような音なのかを確認することができる。//web.uvic.ca/ling/resources/ipa/charts/IPAlab/IPAlab.htm

筆者プロフィール

古本 真 ( ふるもと・まこと)

1986年生まれ、静岡県出身。大阪大学・日本学術振興会特別研究員PD。専門はフィールド言語学。2012年からタンザニアのザンジバル・ウングジャ島でのフィールドワークを始め、スワヒリ語の地域変種(方言)について調査・研究を行っている。

最近嬉しかったことは、自分の写真がフィールドのママのWhatsApp(ショートメッセージのアプリ)のプロフィールになっていたこと。

編集部から

今回からは「フィールドワーカーの仕事」として、フィールドワーカーの「○○語の勉強」について教えていただきます。ネイティヴの話者であっても、必ずしも自分の話す言語についてうまく説明できるわけではありません。注意深く話者を観察してその言語をマスターするのが、フィールドワーカーの力の見せ所のようです。古本さんはスワヒリ語トゥンバトゥ方言の音声を耳と目を使って観察し、音声の正体を解明していました。みなさんが使っている語学の教科書の発音記号も、このような誰かの注意深い観察によってつけられたものかもしれませんね。