「正しさ」とは何だろうか。一般的には倫理的に間違っていないとか、法を犯していないといったことのように思われる。justiceは正義と訳されることが多いが、正義といえば、平等などの人権思想を表す概念ではないかと思う。社会言語学や文法論では言語の規範について数多く論じられているが、少なくとも日本語に関しては、法によって規範的だと定められている言語体系はない。戸籍法の施行細則に規定されている人名用漢字を除けば、言語使用に制限はないように思われる。常用漢字のように内閣告示で示されているものや、文化審議会国語分科会(以前の国語審議会に相当)の答申などもあり、マスメディアがそれぞれ定めている表記やことば遣いの規範などもあるが、例えばそれを破ったからといって罪に問われることはない。
では、ことばについての「正しさ」とは何だろうか。私は一言でいえば「意図したとおりに通じる」ということと「受け手の気分を害さない」の二つで、ほとんど説明できると考えている。この二つは、言語の機能を二分する場合に言われる指示的機能[referential function]と感情的機能[emotive function](Ogden & Richards, 1923)とも対応する。
「意図したとおりに通じる」ことには、実はいくつかのレベルがある。例えば「月曜日」のことを「火曜日」と言えば、待ち合わせには失敗するはずである。その意味では「月曜日」は「月曜日」であり、ほかの曜日ではありえない。月曜日というのは1週間の7日間のうち、日曜日の次の日であるということを了解しているからこそ、通じる概念である。カレンダーが存在し、それを社会で共有しているから通じるのである。日本語に規範を定めた法律はないと書いたが、実は学校教育によってある程度言葉の規範は作られ、受け継がれており、辞書や文法書にも言葉の規範は記述されている。
では、「閑静な住宅街」を「静かな住宅街」と表現したらどうであろうか。「閑静」はgoo辞書(デジタル大辞泉)では「もの静かで、落ち着いたさま」と説明されている。「閑静な」はいろいろある「静かな」状態の一種であろう。言語学では、このような場合、「静かな」は「閑静な」の上位語であるというが、要は「静かな」は「閑静な」の意味の一部を表現していると言えるだろう。日本語教育の観点からは、「閑静な」は上級レベルの低頻度語であり、「静かな」は初級レベルの高頻度語である。「静かな」を知っていても「閑静な」を知らない学習者は多い。
しかし、例えば「(この辺は)静かな住宅街です」と表現されれば、多くの場合、言葉の受け手は「静かで」「落ち着いた」「住宅街」すなわち「閑静な住宅街」という意味に理解するであろう。つまり言葉の送り手は意図したとおりに意味を伝えられる。一般的に「静かだが落ち着かない住宅街」というのは想定しにくいであろうし、「閑静な住宅街」が決まった表現としてよく使われるため「静かな」と言われたら「閑静な」を連想するということもあるからである。
言語教育では、「静かな」のような語は他の多くの概念を表現するのに必要な基礎語で、「閑静な」「静粛な」などの多くの類義語の中心にあるプロトタイプ的な語と呼ばれ、使用頻度も高く、先に学ばれるべきだとされる。
「閑静な」のような語は、洗練された[sophisticated]語と言い、頻度も基礎語よりは下がる。意味的にも基礎語に何か特別なニュアンス(この場合は「落ち着いた」)を加えた語であることが多い。知らないよりは知っているほうが良い。しかし、知らなければ生きていけないかと言えば、そうでもない。相対的な重要度は下がる。
ことばの正しさをめぐる議論に立ち戻って言えば、「閑静な住宅街」を「静かな住宅街」としか言えなかったとしても、それを誤りだというのは言い過ぎであろう。ほぼ送り手の意図したとおりに理解されるだろうから。多くの日本語教師は、基礎語彙を駆使して難しいことを表現できる学習者に出会ったことがある。かなり多くのことは基礎的な語の組み合わせで表現できるのである。
昔、中国に留学していたとき、「かなづち」を表す中国語を知らず、宿舎の管理人に「くぎを打つ道具」を貸してください、と言ったら「かなづち」が出てきた。「かなづち」は上級で「くぎ」は中級、「打つ」「道具」は初級語彙である。言語を学ぶときに初級レベルの基礎語彙が重要なわけである。
参考文献
Ogden, C.K. and Richards, I.A. (1923). The Meaning of Meaning. New York: Harcourt, Brace and World. (石橋幸太郎訳『意味の意味』新泉社)