(前回からのつづき)
蔵書とか?
古書とか?
ひー、こわいです。でも、これが「人間(けだもの)」の順でなくて良かったと思うことにします。
それは嫌な予測だ。
たまたま、その日だけのらくらしていたのではなくて、なんだか連続してのらくらしているということだ。うーん、草むしりをするとか、風呂場のそうじとか何かして下さい。
まるで正反対です。急に言い直してもだめ。
ところが、全然恥ずかしがらないで「もっと何か言わないかな」と、次の言葉を平気な顔で待つ人もいます。わたしの研究によると、こういう人はもう人間ではなくなって「妖怪ほめられたい」になっている。
この手の妖怪で、「妖怪おれがー」というのもいる。
「妖怪ほめられたい」「妖怪おれがー」ですが、この妖怪は、変化などという立派なものは見せられないけれど、「いい気になる」「他人の仕事を自分のいいように使う」「礼儀知らず」という態度が特徴です。こういう態度は人として不思議なので、もうこれは人間ではなく妖怪なのだ、と気が付きます。
あはは、「世代」。
美輪明宏さんに、「この見出し、あります」と、お伝えしたくなる。
(つづく)
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「こだわる」追記
すてきな( )物件で、「こだわる」をご紹介しました。用例に「カボチャにこだわり続けた画家」とあり、「これは誰だろうと思いました」というメールを、「新解さん観察人」の方からいただきました。この「新解さん観察人」というのは、①実際にはお目にかかったことはない②でも、『新解さんの謎』刊行から、ずっと新明解国語辞典についてやり取りをさせていただいている間柄で「知人」とも「友人」とも違う新しいジャンルの大事な方のことです。
わたしは「カボチャ」だし、「こだわり続けた」と文章が過去形なので、「これは武者小路実篤だと思います。本当は作家なのに、新解さんは画家だと思っているのですね」と返信しました。
ところが、この後にわたしの心の担当編集者(実際には担当をしてもらえなかったけれど、仕事を含めて困り事をいつも相談する編集者)から、「カボチャのところで草間彌生さんの顔と大きな水玉のカボチャが目の前に現れました」と、メールをもらいました。
え、これって武者小路実篤ではなくて、草間彌生なの? あらま。わたしが思うに、草間彌生は水玉にこだわりがあり、その水玉がぞろぞろと移動して大きなカボチャに乗っているのではないでしょうか。はぁ、確かめに行かないといけない。でも、この間の台風でこの有名なカボチャは流されてしまったと報道があった。今はカボチャはどうなっているのか。今日も台風です。そうですね、直島への確認調査も「新解さん観察人」との初の面会も、コロナの後の楽しみに(わくわくしながら)とっておくことにします。