最近、2022年度から実施される高校の新学習指導要領で、従来の選択科目にあった現代文と古典を再編し、「論理国語」や「文学国語」などの新しい科目にするということが話題になっている。特に、文学を重んじる立場から、文学にも論理はある、社会に出て役に立つことばかりが重視されて近視眼的だ、といった批判がなされている。
また、最近、大学共通テストでの国語の記述式問題の延期が話題になったが、この記述式問題の試行問題は、OECDが開発、実施してきたPISA(Programme for International Student Assessment)と呼ばれる国際学習到達度調査に似たタイプの問題が入っていたことでも知られていた。PISA調査での日本の読解力の順位が下がったことから、批判的思考や記述に弱いといった面が指摘され、その対策としてカリキュラムや試験の改革が行われようとしていたのであろう。
私自身は、このような改革の方向性自体は概ね正しいもののように思える。ただ、マスメディア等に現れてくる議論には、どうも論点自体がおかしいと思えるような面もある。今回の記述式試験の中止や英語のスピーキングテストの中止についても別の機会に論じたいが、ここでは、ことばのあり方と知のあり方について少し考えてみたい。
まず、論理と文学は対立する概念ではないだろう。その点は文学者の意見も理解できる。ただ、私自身は「実用」のコミュニケーションと「非実用」のコミュニケーションは、ある程度分けて学ぶべきだと考える。つまり、ことばの教育の分類は、まず言語使用の目的が一番上に来るべきである。
私の考える「実用のことば」とは、「ことばの送り手が伝えたいと意図する内容を、できるだけ正確に伝えようとすることば」である。したがって、実用のことばはわかりやすければわかりやすいほどよい。正確に伝わるからである。
文学は非実用かと言われれば、詩や小説は概ね非実用であろう。ある程度解釈に自由度がある。書き手の意図しない解釈をされても、誰かが即座に困るわけではない。よく小説を読ませて「登場人物の心情」を答えなさいという問題があるが、これは実用的に見ればとてもおかしい。そのような登場人物が実在するわけではないし、書き手が何を意図して書いたか、どこにも証拠はない。「登場人物の心情は一般的にどう解釈されるか」と問うならば理解できるが、果たして文学の目的とはそのようなことであろうか。
批評や哲学書は実用か非実用か、即座に決めがたい面があるが、中にはかなり文学に近いものがあるように思う。広告なども実用と非実用の境界にあるといえる。
これまで、国語教育ではわかりにくいものをありがたがる傾向が強すぎたのではないだろうか。これは教育現場で試験をして能力を差別化しようとしてきたことの弊害である。わかりやすいことばでは試験問題が作れないからである。しかし、わかりやすく人に伝えることを訓練せずに、国語教育といえるだろうか。難しいことをいかにわかりやすく人に伝えるかを評価に組み入れなければ、コミュニティ自体が成り立たなくなってしまう。
また、論理性や批判性を鍛えるのも、基本的には実用の言語でなければできないと考える。非実用の言葉は解釈にあいまいさを許すものであり、共通の到達点に向けて議論することが難しいからである。非実用のことばでは、むしろ創造性を尊重し、それを評価するべきだと思う。ああ、そういう解釈もあるのか、ということを楽しみたいし、教師としてはほめてやりたいし,違うと思えばそこで議論をしたい。その意味では、登場人物の心情を一つの正解に当てはめるのは弊害だと思われる。