先回の、高校の新学習指導要領の話や大学共通テストでの記述式問題の話から広げて、もう少しことばのあり方と知のあり方について考えてみたい。
先日、85歳の母が、内村鑑三の『求安録』を読み、「明治の知識人のスケール」や読書量に感心した、と言っていた。このような話を聞くと、いまの私など、なんとも浅学菲才な感じがしてならないのだが、テレビもスマホもなかった時代には、人はもっと書物に親しみ、さまざまな知識や教養を持っていたに違いない。TwitterやLINEなどで短いメッセージのやり取りばかりしていては、物事を深く考える力や、長くまとまった考えを読み取ったり表現したりする力も低下するのは間違いない。
しかし一方で、伝統的な教養を強調する考え方には、なじまないところもある。先日、新聞紙上で佐伯啓思氏が国語教育改革に言及し、先人の経験や思索を知ることが想像力をかき立て、鍛えるので、そのためには文学や難解な思想書も読まなければならず、難解さに直面し、答えの見えない中を試行錯誤することが、現実の人生における難問を前にして役に立つ。だから、国語教育は思想や文学の基礎的な読解を、時間をかけて訓練するという方向へ向かうべきだ、といった趣旨のことを述べていた(朝日新聞、2019年12月28日)。まとまった文章を読む訓練が必要だという考えには賛成するし、文学や思想は重要であると思うが、そのような教養の強調には弊害もあるように思われる。
日本語教師的な視点で、有名な先学の書いた書物を読んでみると、比喩が多く、アカデミックな文章としてはダメなものも多い。思想書や批評と呼ばれるものなどは、一見論理的に見えて、実はあまり論理的でないというものがかなりある。たまたま手元にあるもので言えば、小林秀雄や丸谷才一などはそのような文章が多い。よく文章の手本のように言われる「天声人語」(朝日新聞)の文章も実用という意味ではダメである。少なくとも私が学生達に教えなければならないような学術的な文章とはかけ離れている(朝日新聞では「耕論」などのオピニョン欄は秀逸だと思うが)。
昔は難解な評論などを理解できないのは自分の能力不足のせいだと思っていた。が、この年になって落ち着いて読んでみると、書き手が思ったことを整理せずに書き散らしただけであったり、意味の不明確な比喩を多用していたりして、読み手にわかってもらうための努力を惜しんでいるだけではないかと思えてくる。あるいは比喩を弄(もてあそ)ぶことに価値があるのであろう。考えさせるという意味ではよいが、わからない人間を排除しているようにも思える。多くの人にわかってもらおうとは思っていない感じがする。私たちは長年、国語教育や受験勉強の中で、そういう文章を優れたものだと思いすぎてきたのではないだろうか。理解できない人を低く評価して、国語の嫌いな子どもを量産し、国語教育をダメなものにしてしまった面がないだろうか。大学入試や受験産業がその傾向を助長して来たに違いない。しかし、相手に意図したことが伝わらないのは、少なくとも実用の文章としては悪文である。
例えば学術雑誌にそのような論文を書いたら、(少なくとも私が関わる分野では)絶対に通らない。論文では、新たな発見や主張があり、明確な証拠や論拠があり、論理的に証明されていることが重要である。不必要にわかりにくいものは、第一段階でアウトである(発見や主張自体が複雑で難しい場合は難解にならざるを得ないかもしれないが)。また、証拠もないのにそれらしい主張をするのも、疑ってかかるのが正しい態度である。そういう目で読んでみると、著名な評論家の主張にも根拠の乏しいものが少なくない。あるいは単に好みや感覚を説明しているだけで、社会的価値とは無関係だったりする。
今の世界は、良くも悪くも、知のあり方が変わってきている。パソコンの普及に代表されるような、あるいはアメリカのプラグマティズムに代表されるような知のあり方は、実証主義的な科学とは相性がよく、それが社会の発展を支えている部分が間違いなくある。また、現実の問題として、多くの人に伝わらないような複雑な考えは、わかりやすいことばに駆逐されるので、それに対抗するには、データや事実から論理を積み上げ、おかしなものを見破る知恵が必要である。OECDの実施するPISAなどはそのような考えに則(のっと)って作られているように思われる。国語教育が多かれ少なかれ取り入れてきた伝統的な教養主義(例えば佐伯の言うような難解な思想書を過度にありがたがる傾向)は、そのようなリテラシー(批判的読解力)を育てる上では弊害になる気がしてならない。
確かに、知が大衆化した分、平均的に浅くなってしまい、考える力が弱くなったかもしれない。知の断片化、ということも最近はよく言われる。そう考えると、わかりにくい文章と格闘することも、やはり必要なのであろう。わかりにくいけれども、人に考えさせるという意味で、また、そのような表現でしか伝わらない思想というのもあるであろう。証拠がなければ何も言えない、というわけでもない。文学、哲学、思想、批評などの役割は、むしろわかりにくさによって、人に考えさせるところにあるのかもしれない。
しかし、それを、正確さや論理を重んじる実用の言語の価値と混ぜこぜにするのではなく、様々な解釈を許す創造的な価値として、教育の場で扱われるべきものだと思う。そのような考え方に立てば、試験問題の作り方を含めた評価のあり方全体が、変わってくる。実用の言語は、従来型の試験でもある程度は評価できる。しかし、非実用の言語については、思想や批評も含めて正確な解釈だけを問うのはおかしい。自分の経験や見聞と結びつけ、連想したり、発展的に考えたりする内容は人によって異なるものであり、異なってこそ創造的で自由な読みであり、そこまでが読解力に含まれる。意図されたことだけを表面的に読み取って終わるのが読解ではない。それをどのように評価すべきか、入試などの評価においても真剣に考えなければならないことだと思われる。