出典
論語(ろんご)・学而(がくじ)―論語(ろんご)・陽貨(ようか)
意味
口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいない。「巧言」は「言を巧(たく)みにす」とも読み、口先・言葉を飾っておべんちゃらを言うこと。「令色」は「色(いろ)を令(よ)くす」とも読み、顔つきを物柔らかにすること。「鮮」は、めったにないという意味。真の人格者はむしろ口が重く、愛想がないということ。「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)仁(じん)に近(ちか)し」<論語(ろんご)・子路(しろ)>は、これに対する語。
原文
子曰、巧言令色、鮮矣仁。〔子(し)曰(いわ)く、巧言(こうげん)令色(れいしょく)、鮮(すく)なし仁(じん)〕
解説
『論語(ろんご)』<学而(がくじ)>と<陽貨(ようか)>に全く同じ句が出てくる。それだけ頻繁に孔子(こうし)によって語られた句とも考えられる。孔子の理想とした「仁」という道徳については、『論語』の中で、さまざまな角度から説かれているが、この句は、その仁を体得した人の人間像を具体的に示しているものといえる。同じ『論語』<子路(しろ)>には、「無欲で果断で、質朴(しつぼく)で、口べたな人は、仁者に近い。(剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し)」とあるのを見ても、仁者の風貌(ふうぼう)・態度を孔子がどう考えていたかがわかる。同じく『論語』<公冶長(こうやちょう)>には、「巧言令色足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず。丘も亦(ま)たこれを恥ず。」とある。左丘明は、孔子より前の賢人、後者の丘は孔子の名。自分自身を指して言っている。「足恭」は、ばか丁寧ということである。古注には「足恭とは便辟(べんぺき)の貌(さま)」とある。便辟とは、こびへつらうことである。孔子が、そうした弁舌だけ、うわべだけの追従(ついしょう)者を、仁の反対にある者としていたことは、明瞭(めいりょう)である。