内閣改造の話を聞くと、国政に深くかかわる人の中には、大臣の椅子に強い志向を抱く向きもあるようだ。大臣は、省庁の中で過ごす官僚にとっては相当に大きな存在だそうだ。省庁のトップとして、行政を大なり小なり指揮し、国を動かすのであるから、その権限と職責は相当に重いものなのであろう。
子供の将来について期待を込めて使われる、「末は博士か大臣か」というフレーズを、最近あまり聞かなくなってきたような気がする。大臣といえども、複雑化した積年の難題の対応に追われ、新聞に言動をあげつらわれたり、舌禍で更迭されたりしてきたこととも関わるのだろうか。
このフレーズに登場するもう一方の「博士」について、漢語としてとらえた場合に言えることを少し述べてみよう。
「博士」という語は、中国で古典的な用語として存在していたことによって、近代の学位の称号(doctor Dr. ドクター)となっている。日本、中国、韓国の間で一致する漢語である(発音はハクシ、ボーシー、パクサ)。日本でこの学位は、現在、「医学博士」「文学博士」などは新規には認められなくなっており、呼称と表記が「博士(医学)」「博士(文学)」などへと変わってしまった。
漢字圏にあったベトナムは、状況を異にする。ベトナムでは、「博士」(バクシイ)といえばもっぱら医者のことを指すのだそうだ。そしてベトナムでは、科挙制度のなごりが現在でも学位の称に残っている。科挙の最終段階にある「殿試」に合格した者を「進士」と言う。「進士は月日をも動かす」と称されるほど、皇帝権力の下で官僚組織を強力に掌握したものだ。その「進士」(ティエンシイ)という語こそが、学位としての博士に相当する。政治と学問とが深く関わっていた時代相がうかがえるであろう。
ちなみに、学士と博士の間にある学位であるマスター(master)に対する「修士」の語は、日本でのみ使われるもので、中国、韓国、ベトナムではもっぱら「碩士」が使われている(発音はシュオシー、ソクサ、タクシー)。この字面は、日本の「修士」よりも何やらエラく感じられる、などとよく言われる。なお、この「修士」は、中国、韓国やベトナムでは、キリスト教の修道士のことを指す。韓国では「修士院」は修道院のことで、大学院修士課程となんだか紛らわしい。
以上をまとめてみると、下表のようになる。ベトナムの「進士」と日本の「修士」が際立っている点が先の「学生」と共通する。
学位 | 日本 | 中国 | 韓国 | ベトナム |
---|---|---|---|---|
修士 | 修士 | 碩士 | 碩士 | 碩士 |
博士 | 博士 | 博士 | 博士 | 進士 |
日本では、難しい漢字に詳しいとか、漢字をたくさん識っているとかいうときに巷間耳にするのが、「へぇ~、漢字博士(はかせ)なんだ~」という「称号」である。もちろん、漢字をいくら研究しても、そのような学位が大学院や文部科学省などから与えられたり、認められたりすることはない。「虫博士」なども同様だ。博士たるものは独特な風貌をしていて、何でも知っている、そして語尾は「…じゃ」(いわゆる役割語)などという世上のイメージは、手塚治虫(医学博士)が漫画に描いた「お茶の水博士」などのキャラクターによるのだろうが、「博」という字もまた「博識」「博学」などの語から、「広く」知っているというイメージを持たせる。しかし、実際には、一つの専門を深く学問的に探究した者、一人で研究を推進していける者といった意味をもつ語とされている。
「博士」は1字ずつ分けて読むと「ハク」「シ」、つまり「ハクシ」が字音語である。しかし、「はかせ」のほうがなんとなく発音しやすく、世上でもなじんでいる。和語であるかのように発音が転化したものだが、奈良時代のころからこの発音が記録されており、百済(くだら)の地での発音によるものかもしれない、ともいわれている。現在の韓国では、「博士先生さま(パクサソンセンニム)」と呼ばれるのは、博士課程在学中の院生なのだそうだ。他大学で非常勤をやっていることが多いための呼称とのことである。
日本では、文系であっても欧米式に課程博士が増えてきて、大学教育・研究職などで新規採用のための条件として示されるようになってきた。その一方で、オーバードクターの就職難が深刻化し、大学院博士課程への進学者も減少しつつあるという。大臣とともに、子供たちに託す将来の夢として、今後もありつづけられるであろうか。