この時期、重要な仕事であるだけに憂鬱になることがある。それは成績付けだ。
大学や学部ごとにそのルールが微妙に異なる。一人ずつの素点で提出せよ、という学部事務所もある。出席などの平常点に、答案、レポートなどの採点結果を加えて点数をはじき出すという方針が多そうだが、その方法は教員によって様々だ。昔、ある御仁が答案やらレポートを階段から投げ、あるいは扇風機で飛ばし、飛距離に応じて成績を付けたなどという話もまことしやかに伝わっているが、そんなことはできない(学業成績の「低空飛行」という比喩は、これと発想に多少関わるところがあったのだろうか)。
絶対評価か相対評価かなどという議論とは別の次元で、レポートに代筆はないか、WEBからの無断コピペはないかなど、詰まらないことにまで気を回さなければならない。他者の間で同一の中身のものがあったり、何かにつけ言い訳めいたことが書かれていれば、対応をどうとるべきか千々に頭を悩ませる。
半年、一年と講義を受けて、その内容を自身の頭で主体的に消化し、それを基に観察、考察を加えた作には、かなりの読み応えがあるものも交じっている。そうした進展の跡の著しいものを見いだすなど、きちんと見分けてから評価を記さなければならない。他者に対する評価は、概して自己の眼力を問われることであり、どうしても消耗する。かつて恩師が一年で一番厭な時期なんだと吐露されていたが、半期化の流れの中で、その機会も倍増し、しかも採点期間が短縮されてしまった。
たくさんの受講者がいれば(報酬は一切変わらなくとも)成績も何百人分と付けることになる。それらを真剣に見抜いて評価しなければ、講義や演習にきちんと向き合ってくれた学生たちにも申し訳が立たない。発憤を促すためにも辛い評価をせざるをえないこともある。もう1年一緒にやろう、と判断しなくてはならないケースも出てくる。むろん、「楽勝科目」とレッテルを貼られて、向学心を一切もってもらえない受講者が増えても困る。
相互評価が制度化されてきたが、学生の側は皆が上述のようなことを理解した上で実行しているかどうか、時に嘆かわしくなることもある。学生たちの間で独自に授業の評判を「★★☆」「楽勝」などと示した冊子も書店などで売買されている。面と向かってなされないそれらを認めない、と述べる恩師もいらした。単に論評しかできない人にはなってはいけない、と私も思っている。
さて、成績表には、仮に素点で付けても、成績通知には「A+」「A」「B」「C」「D」「E」「F」など、ローマ字で何段階かの成績評価が示されるようになっている。それらが、「秀」「優」「良」「可」といった漢字1字へと置き換えられることもあった。これは戦前からの伝統を有するもので、「不可」だと落第だ。実存主義文学者の「カフカ」の名は縁起が悪い、なんて言われたりしたゆえんだ。
「優」と「秀」ではどちらが好成績と感じられるだろうか。「優秀」の「ユウ」と「シュウ」だが、「秀才」(元は科挙の用語。第8回、第17回参照)の「秀」、訓読みでは「すぐれる」と「ひいでる」など、なるほど「秀」のほうが良さそうに思えてこよう。私も在学中には、「彼は、全優だ」なんていう話を、聞いたこともあった。この場合は「秀」に該当する成績も含んでいる。
以前には「甲」「乙」「丙」「丁」などの表示もあったそうだ。役場などの勤務評定では「秀」から始まり、「不可」の代わりに「劣」という評価もあるのだとか。さすがに「実社会」は、形式的なものかもしれないが、教育現場よりもシビアなようだ(*1)。
さてこの「優」「良」「可」などの成績には、漢字圏において興味深い一致と差が生じていることが次第に分かってきた。次回以降、実際に比較をしつつ考えていきたい。
【注】
◇「優」の字については、第20回参照。