植物学者の牧野富太郎は文久2年土佐生まれ、寺子屋や郷校(庶民も学べる学校で藩校と寺子屋の中間的存在)で学び、学制改革に伴い明治7年12歳で小学校に入学します。わずか2年で自主退学、学歴的には下等小学卒となるのですが、それでも独学で日本植物分類学の基礎を築き、理学博士となった人物です。郷校で文明開化の諸学科(窮理学《物理学》や地理学、生理学等)を学んでいた彼にとって、小学校の教育内容が飽き足らなく思えたことが退学の理由ですが、そのような中でも「文部省で発行になった『博物図』が四枚学校へ来たので、私は非常に喜んでこれを学んだ」と述懐しています(『牧野富太郎自叙伝』長嶋書房)。
この『博物図』とは理科掛図のこと。明治6年、アメリカのM. ウィルソン & N. A. カルキンズの「School and Family Charts」中の植物図を参考に文部省が作成しました。
中でもこの第二博物図は国産の果実44種類、ウリ科15種類を大小のメリハリを利かせてレイアウトし、6年発行の4枚の中でも特に目を引きます。当時はこれほど美しい大判の色刷り教材など無かったでしょうから、富太郎少年の目をくぎ付けにしたのもうなずけます。まさに本家本元アメリカの掛図に引けを取らない見事な出来栄えは、やはり日本独自の伝統の積み重ねがあったからといえるのではないでしょうか。画家の長谷川竹葉は歌川派の絵師で、輪郭線を銅版で描くなど新しい手法を取り入れつつ、江戸期に花開いた浮世絵の版画の技術を活かしたものとなっています。
そして理科掛図刊行の中心人物である文部省博物局の田中芳男(第4回で紹介した『小学読本』編纂者田中義廉の兄です)が、幕末に勤めた幕府の洋学研究機関「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」もまた、江戸と明治の文化の接ぎ穂的存在として意義あるものでした。文久元年、交易上必要な国内外の鉱物、動物、植物の知識を蓄える物産学が所内に開設され、ほぼ同時に開設された画学局では正確な臨写図(手本通りに写生した図)を描くことが重要な任務でした。物産学出役(出向)の田中芳男は動植物の絵を画学局の画工に依頼、知識をビジュアル化する二人三脚の体制がすでにこの時出来上がっていたわけです。
牧野富太郎は明治14年、心に焼き付いた博物図の刊行者である田中に会うために文部省博物局を訪れ、植物研究への志を強くしています。この博物図は偉大な学者の誕生に貢献した教材といえるでしょう。
そして、もう一人の富太郎、唐澤富太郎がこの博物図を入手したのは、講演で出かけた先の信州松代の旅館でした。資料収集に燃えていた父が講演を受ける交換条件としていたのが、地元の古道具屋さんを紹介してもらうことだったのですが、出会った人ごとに「昔の面白い何か、ありませんか」と尋ねることも常としておりました。藩校の文武学校が今に残る松代は、きっと面白いものがあるに違いないと、長年の経験でぴ~んとくるものがあったのでしょう。宿泊先の旅館でも尋ねたところ、江戸期には文武学校の御用商人として文具を扱っていたそうで、明治初期の貴重な掛図をはじめ、文房具やご家族の賞状まで分けていただき感慨無量だったと自著『執念』(講談社)で述べています。
★おまけ
現代人が見て、一番不思議に思うのは林檎の小ささでしょう。ミカンやスモモと同じ大きさに描かれています。当時の林檎は和林檎で小ぶりでした。田中芳男のご子孫田中義信氏が書かれた『田中芳男十話』によれば、福井藩主松平春嶽の巣鴨藩邸にあった西洋のアップルと初めて接ぎ木を試みたのが田中芳男だそうです。美味しそうには見えない和林檎の図を前に、先人の挑戦に感謝です。