銀行を目指して「就活」する学生は少なくない。めでたく就職していった卒業生の話を聞くと、銀行員になると、研修でまずは「行員としての数字」が手できちんと書けなければならないと教わり、お手本の数字を元に、何時間もひたすら書き取り練習をさせられ、その数字の形が身に付くのだという。やっと前期を終え、1000名を超えた受講生の採点のために、数字を自己流に、それさえも乱れがちな形で書いている身には、耳が痛い話だ。
ここまでの2回(第42回、第43回)で、子供のころに見て以来、失われていた記事との巡り逢いについて記したが、もう二度と見つけることはできないだろう、と諦めているものもある。その一つが、銀行の数字の形に関する1、2ページの記載である。切り取っておけば良かったと後悔しているが、それを見たのは小学生のころだったのかもしれない。
新聞社か銀行の広報誌やパンフレットだったか、無料で配布される薄く小さな冊子だったような覚えがある。小中学生の頃に住んでいた家の中で開いたその何かには、銀行ごとに決められているというアラビア数字の書き方が表になって対比されていた。簡単な説明も、確か縦書きでなされていた。
そこには、信用金庫や郵便局のたぐいの数字まで示されていたようにも思える。証券会社のそれもあったかもしれない。そうした金融機関ごとに数字の書き方、形が少しずつ微妙に違っている、という説明が記されており、「本当にそのとおりになんて書けるものなのかな」などと、ひねくれつつも素朴に思った。ともあれその冊子は、図書館に入れてもらえるような書籍でも、誰かが保存してくれているような「おまけ」のたぐいでもなかったと思う。
これは、社会的な属性による字形の差の典型であり、後に定義付けを行うことになった「位相文字」(位相的字形)そのものともいえる。小学生の時といえば、社会科見学で、郵便ハガキが全自動で読み取られ、地区ごとに振り分けられている機械を見て驚愕したものだった。そのような時代であり、そうした新規のシステムとも関係して、数字の字形が注目されていたのかもしれない。
きっとそれは1970年代のことだったのであろう。高度成長期に続く安定成長期にあった当時、定期預金は利率が7%を超えており、子供ながらに僅かな小遣いやお年玉を預貯金に入れることは楽しみであった。今の、普通預金では逆に手数料を取られかねないともいうような超低金利時代には信じがたいことであるが。
銀行という建物や行員は、子供の目から見ても光り輝いていた。一つ一つの銀行にしっかりとしたカラーが感じられ、大金と数字をコンピューターできちんと管理しているさまは大層立派に感じられた。かつての銀行では、お金を少しでも預けに行けば、窓口や係の人が貯金箱など土産を何か必ず手渡してくれ、それが楽しみであった。また、電車も冷房車が珍しい時代であり、夏の暑い日には、クーラーがきいているフロアーは実に快適だった。まだ、我が家では扇風機しかない時代だったため、その清浄な大企業に涼みにだけ入ったことも確かあったような気がする。
前に記した、銀行ごとの数字が対比された記事で、伝統や慣習に裏打ちされた個々の金融機関の誇りのようなものさえも、それぞれの数字の形を通して読み取れた気がしたのかもしれない。
その後、軒を競っていたそれらの銀行が次々と統廃合された。大手証券会社も廃業し、郵便局までも民営化された。その結果、今、数字の字形の差はいったいどうなっているのだろう。次々と起こった合併や倒産などで、全体の字形差の幅が小さくなったことだけは想像できるし、頑張れば現状は捕捉できるのだろうが、30年前の実際は復元できるものだろうか。
数字の形について、各国から来た留学生たちに尋ねてみると、外国と日本とではだいぶ違っている。外国同士でもまた差がある。しかし、何よりも国内における公的な機関同士であっても、かつては意外なほど多様性を帯びていたということが、忘れられない。