10月、大学は後期に入った。この前期と夏休みの前半は、まさに「当て字」に捧げた5か月間だった。
間もなく上梓される『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)は、当初は薄く小さな本にするつもりだった。しかし、際限ない広がりを見せる用例を、容赦なく削除していったのだが、それでも割愛にためらうことも多く、結局は900ページを超える厚みをもつ一冊となってしまった。小説や歌謡曲、漫画、雑誌、WEBなどで日々作りだされており、元より完璧を期すことの困難な対象ではあるが、何とかそこまで中身を拡げられたのは多くの方々の助力の賜物であり、それを辞書の形式に整えられたのは担当の方々の良心的にして献身的な編集のお陰であった。
「当て字」は、世上でよく使われる語だけに、意味が実に多様であってとらえにくい。日常でも、「そんなの当て字だよ」と評される場面があるように、マイナスイメージを与えられがちだ。しかし、実は「時計」も「充分」も「煙草」も「歌舞伎」も当て字である。漢字から見れば本来性や一般性に欠けるところのあるユニークな用字(法)であり、日本語から見れば同じように個性的な表記(法)である。漢字と日本語とを考えるうえで、格好の材料といえる。2万種を超える実例を整理している時には、日本の人々の心性までもうかがえるように思えることがしばしばあった。
「辞典」の名を頂く書籍の中で、この表記を収めたのはたぶん最初だろう、と思うものが少なくない。ただ、先人たちはすでに当て字の辞典の道を切り拓いていた。個々には、シュウオウや「あきざくら」と読まれてきた「秋桜」をコスモスと読ませる熟字訓は、山口百恵以降に広まったものだが、『新潮日本語漢字辞典』がすでに収録の先例を示しており、これは国語辞書にさえ掲載が見られるようになっていた。
辞典へのそうした例の収録には、さまざまな意見があるであろう。しかし、辞典といえども規範主義だけで成り立つものはなく、一方の核となる記述主義に重きを置けば、模範たるべき「鑑」よりも、現実を映し出す「鏡」としての役目を帯びるのは当然のことである。
その種々の素材からは、何が読み取れるのであろうか。この辞典には、すべてを収めたわけではないが、様々に思索を楽しめる部分を詰めこめられたのではないか、と思う。そうした思いが薄らぐ前に、しばらくの間、当て字の世界についてここで考えていきたい。
まずは、「まじめ」という語に対する当て字について取り上げてみたい。(続く)