一般に関心をもたれがちなことなので、60画台の字について述べておこう。中国では、辞書に「龍」を4つ書く字【図1】と「興」を4つ書く字【図2】とがある。いずれも64画に達する印象に刻まれやすい字であるが、どこか様になっている。とくに「龍」は、1字だけでも字体、字音、字義にインパクトがあるようで、それが4つも重ねられた字は、「奥深い」漢字の世界の最多画数の座を飾るにふさわしく感じられるようだ。漢字の蘊奥を感じ取る素材として十分な存在となっているようだ。
前者【図1】は、テツ・テチという音読みで、多言、つまりよくしゃべる、おしゃべりというような意味で、かつては、かの『ギネスブック』にも掲載されていた。後者【図2】は、セイという音読みしか伝わっておらず、字義は「政」という字音がほのめかしているようだが、明確ではない。
前者は、中国の古い道教の書籍にそれらしい使用例を見たが、もとより文脈がとれるような文章ではなく、中国古典で実際の言語を表そうとした使用例は見出しがたい。
ただ、人名としては、この字が使用されることがある。辞書に載るということは、そうした応用を生む契機ともなるのである。以前に岩波から出した新書に示した幕末の例のほかにも複数の例が存在し、また台湾では「龍」さんという若者がいる、と報道されたことがあるそうだ。これは、16画×9回で、140画を優に超える人名だ。
ともあれ、このインパクトのある字の由来を考えておこう。まず、「龍龍」と「龍」を二つ並べて2匹の龍が飛ぶ様を表す字があり、それを声符とした字【図3】が作られた。これがさらに「龍」ばかりが増殖し、「言」を同化して生じた字だと考えられる。
これと「興」4つは、なぜちょうど64画という数字で頭打ちになっているのだろうか。実はもう1つ、説明の難しいほど様々な字を寄せ集めてできた64画の字も見つかっている。また50画台の字がほとんどない割に、なぜ64画の字ばかりが3つもあるのだろう。かつて古書の記述を調べたり、あれこれと考えたりした結果、中国で古くから根強く存在する六十四卦の思想を元に、漢字でも最小の「一」画があるので、最大の「六十四」という画数を押さえて、両端を埋める必要が意識されるようになり、作成されたものではないかと、書いてみたことがある。
『当て字・当て読み 漢字表現辞典』には、耳に入りやすく記憶に残りやすい「鬱」(前回参照)と「龍4つが漢和辞典に収められていたこと」ばかりが喧伝される画数にまつわる「常識」を打ち破るべく、あえてこのたぐいもいくつも載せてみた。たとえば64画の「龍」4つの字を、店名に用いた喫茶店までが和歌山にある。何とその地で使われている方言「てち」に、同音のこの漢字を当て字して、実際に看板などで使っていたのだ。漢字の源泉に喩えうる中国と、海を隔てた日本の細かい河川のような様子とを、ここにも見た思いがする。