漢字の現在

第102回 富士八湖での当て字

筆者:
2011年5月27日

観光地では、しばしば昭和を感じる語に行き着く。景勝地の広い眺望を表現する「パノラマ」も、個人差はあろうが私にとってはその一つで、子供のころ、洋風でありながらも、どこか日常から離れきれておらず、すでに古びた語感を帯びていた。そこにいっそう磨きがかかってきた。「東洋一の…」なども、程よい誇りと謙虚さを感じさせたものだ。

身延線の金手駅は、「かなで」ではなく「かねんて」だった。知らなければ当てずっぽうでも無理そうだ。「蛾ヶ岳」は、「ががたけ」と読んでしまう者があったが、「ひるがたけ」という振り仮名が看板やパンフレットに付されることがある。なぜ「ガ」の字を「ひる」と読ませるのだろうか。ちょっとだけ調べると、信玄公が登場したり、中国の「峨(蛾・娥)眉山」が出てきたり、「昼」という表記や蛭(ヒル)の方言など、やはり伝承や推測はすでにいろいろとなされているが、自然地名だけに、由来ははっきりとしないらしい。

登山者が結構いるそうで、この読みは関心を呼んでいた。近くには「蛭(ヒル)」をそのまま用いた地名がある一方、山家(やまが)地区もかつて「山蛾」と記されたとのこと、関係を解き明かすには複雑そうだ。

調査を兼ねた旅行は、じっくりと腰を据えすぎたり、あまりしつこくはならないようにしたい。何かを探し回るようにはしたくないが、かといってせっかく訪ねたのに上辺だけしか見ないのもまたよくない。韓国には「水朴(スーバク)コッタルキ」(수박 겉 핥기、西瓜の皮舐め)という諺もある。両方というか中間というか、そういう姿勢が自然にとれるように心掛けてはいるが、うまくいっているのかどうかは、自分でも少し心許ない。

「薬袋」で「みない」と読ませる姓がある。これにも信玄公が登場する由緒話があり、さすが山梨だ。以前、研究室に取材にいらした方は「中込」さんだった。なんという読みが浮かぶだろうか。山梨の出身で「なかごみ」さんなのだが、東京では「なかごめ」と読まれてしょうがない、とのこと。なるほど、同県出身でプロ野球選手だった中込伸も「なかごみ」だ。甲府でも、この中込姓は歯科、医院の看板で目に飛び込んできた。

東京の人がつい「なかごめ」と読むのは、「申し込み」のような例もあるが、「馬込」「駒込」といった地名をよく見聞きする影響であろう。タクシーの運転士さんの一人は「土橋」で、「つちはし」もいるが自分は「どばし」。出身の上九一色では親戚でないが一帯の皆がそうだったとのこと。上九一色村は、ガリバー王国などで名を広め、合併で消えた村名だ。

標高800メートル以上という山も、富士山や南アルプスは見上げないといけない。山道の途中にも、小学校の分校が建っている。標識には、「鹿の飛び出し注意」とある、都内区部では見つけがたい文字列だ。「鹿」は昨年になって常用漢字表に追加された字だが、こうした地では、その前から振り仮名なしで使っていたのではなかろうか。

タクシー運転士は、客が「南アルプス市」なんて言うから、行き先が分からなくなったよ、と嘆く。「お客さんも「一回言ってみたかった」なんて言っていただけ」だそうだが、「旧名で言ってもらわないと分からない」。「「甲斐市」になって「敷島」という立派な地名も(行政地名としては)消えた」と語る。この辺りでは、タクシーを運転する人たちは、皆50代、60代のようで、平成の大合併などによる地名の変化の激しさに困惑している様子だった。

目当ての湖があった。そこは、町のHPには、

「四尾連湖は、「志比礼湖」とも「神秘麗湖」とも書かれていました。「四尾連湖」といわれるようになったには、四尾連湖の神が「尾崎龍王」という龍神であり、四つの尾を連ねた竜が住んでいる湖ということで「四尾連湖」といわれるようになったといわれています。」(//www.town.ichikawamisato.yamanashi.jp/50sightsee/50guide/shibireko.html

と由緒などが記されている。ベトナムならずとも、水と竜は関連づけられる。それにしても2つめの「神秘麗湖」という洒落た表記は、意図的な装飾のようだが、新たな語源解釈を生み出しそうだ。あるいは俗解による漢字選びだろうか。ともかく手塚治虫の『ザ・クレーター』に描かれた御殿場の湖水を思い出す。いつごろの当て字だろう、気になり出す。

「四尾連」というそれまで読めなかった地名が、読めた途端に「痺れのことか」と急に思い付き、さらに連鎖が始まってくる。確かに、「蹇」「志比礼」とも書かれ、湖水の冷たさに入れた足が痺れるところから、と座光寺南屏碑文にある、と地名の辞書は言う。江戸時代には富士五湖ならぬ富士八湖の一つに入れられていて、雨乞い、富士講などの信仰も盛んだったようだ。

四尾連湖畔で

(クリックで周辺も表示)

四尾連湖畔で。竜にまつわる当て字のようだ。

湖は、実物が小さくてがっかりするのでは、とのことだったが、湖畔では手作りの味噌田楽(こんにゃく)で小腹を満たし、お決まりのスワンボートに乗り込む。あともう1か所、訪ねたいところがあるが、今日のうちに寄れるだろうか。

近くの鰍沢は、身延線の駅名にも見える。この「かじか」も、また気にかかっている。川魚で、中国には同種のものがいないのだろうか。この「鰍」という字は、日本ではいろいろな魚に当てられ、カジカも国訓の一つであり、かつては地域の別なくよく使われていた。中国では、「鰌」(どじょう)の異体字だった。小石のある川を好むカジカには、それらしく「鮖」という会意文字も、新潟の地名などに見られる。都区部で育った私にはピンと来ない。秋の季語で、秋においしいのかと思うが、カジカは実際に少なくとも上九一色村にはいたとのことで、年中獲れ、春にタマゴを産んだそうだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。