「北」と言えば中国、「南」と言えばベトナムというくらいベトナム人の「世界」を作り上げ、その支配から脱した後も、常に学び、時に畏れるなど、意識しなければならない存在が中国であるようだ。そうした中でも、漢方薬は、ほとんど飲まれていないそうで、日本とは異なる中国文化の受容の様子も随所に見られる。中国からの独立を果たし、冊封体制の中で、その中国の文化や制度を導入することで、自らが儒教の徳を有し、漢語・漢字をも用いる皇帝を立て、小さな中華を形成していったのである。
領地はたとえ狭くとも、中国よりも多くの省を抱き、中国と同じくらいの少数民族を抱える国家にまでなった。そのうち、ザオ(瑶)族は、中国ではヤオ(瑶)族となるなど、国境をまたぐ民族も生じている。またそこには、中国では「京(ジン)族」、ベトナムでは「ホア(華)人(族)」と呼ばれて暮らす人々もいる。
孔子廟に入ると、造花で、儒教に関する文言が記されていた。繁体字がメインだが、「師」は簡体字となっている(前回写真)。歴史を感じさせる筆字では、「達」が「逹」のようになっている。今ならば「×」になると連れが言う。当時の筆写字体だった。
文廟を回って特に驚いたのは、今でもチュノムが使われていたことであった。『三千字』はないとのことだったが、表示板にクオックグウよりも上に書かれている(第107回写真)。チュノムによる新しめの長い文章は、そこの庭にある鐘の銘文に見つけられた。また、その敷地内の土産物店でも、掛け軸のような物に記されていた(写真)。そのうちで、チュノムが多い一つの掛け軸を買ってみた。恒例のことなので頼んでみたが、さすがにここでは値切れなかったようだ。慣用句だろうか。チュノムは、現代においても、局部的ながらも位相文字としての位置は確かに温存していたのだ。これは、少しは知っていたが、いざ目の当たりにして衝撃を受けた。
チュノムの文章は、滞在中にほかにもいくつか見かけた。博物館の展示物の書物などにあるのは当然だが、購入してみた、あるチュノムの字典の序文にもクオックグーと対にチュノムでの文章が記されている。漢喃研究院の掲出物では、今でも詩文をチュノムで書く人もいることがうかがえた。
文廟では、制服を着た女子高生の姿もあった。制服はアオザイではなく、フランス式だろうか。見よう見まねなのか慣れた感じで、孔子や孟子などの像に素早く三拝しているベトナム人は、概して小柄で若く見えるので、中学生のようにも見える。母親と一緒に来て、手分けをして参拝しているようだった。大学受験なのであろう。日本では、さながら聖橋を通って行く湯島聖堂、あるいは太宰府の天神様のような存在であり、学問の神様なのであろう。中国では漢字を発明したという蒼頡が祀られている廟のある地域もあり、同様の役割を託されているそうだ。
歴代の科挙の合格者である「進士」の名前が刻みこまれた大きな石碑は、今は紐で進入が禁止されている。その前で、その子がキョロキョロして、なにやらとまどっている。そして気付くとこっそり素早く中に入り込み、辺りの目を気にしながら、重たい石碑を支える石の亀の像の頭を撫でていた。
甲骨文字の昔から、南方から大きな甲羅が中国に運ばれてきたそうだ。長生きする亀はここでも縁起がよいそうで、900歳にも及ぶものがいたとか。本当だとすればベトナムの漢字の変遷の歴史をともに歩んできたことになる。その石の亀は昔から御利益があるとされてきたのだろう、撫でられつづけてきたため、頭が黒光りしているものが多かった。カメラを持った日本人を見て、その受験生らしき娘も、少し決まり悪そうににこやかに羞じらっていた。