地震で本棚から崩れた書籍の整理が終わらないうちに、前期が終了しようとしている。重なり合った本は、とりあえず地面が見えるまでには片付けたが、〆切が迫った(過ぎた?)原稿を仕上げるための辞書が見つからない。採点期に、気になる1冊となってしまった。『時代別 国語大辞典』なのだが、あちこちから室町編ばかりが出てくる。上代編だけがどうしても見つからないので、図書館に久しぶりに寄る。参考図書だろうからさっと済むはずだ。
目当てのその項目はあっさりとした内容で、原稿を直す必要のほとんどないことを確かめた。目に入った隣に置かれている本を2、3冊開きたくなり、見はじめるも、後の約束もあるのでそこで打ち切る。
館外へ出ると、声に呼び止められる。法学部生だ。混んでいて館内に入れないので、ここで「ドハマリ」の授業の試験勉強をしているとのこと。試験前に、図書館が自習室となるのは、昔から変わらないが、そこにある膨大な知が目的となっていないようで、惜しまれる。そのいつも熱心な学生は別として、多くの学生はせいぜい参考図書を利用するくらいだそうだ。大人になっても甘口カレーばかり食べているように思えてくる。今は、書庫(地下)にも学部生が入ることができ、検索も自在な現在の良さとそれを用いないことのもったいなさをくどく説明し、4階の古書資料室なども使うとよいと勧め、ついでに江戸時代の本も複写できてしまえそうだった、古き良き当時の思い出を語り、別れる。
大学生協へ向かう。試験期間は、学生が多い。切羽詰まった様子もある。今度は道でゼミ生から声をかけられた。こんなところで会うのは珍しい。今から、最後の試験用に教科書を買いに行く、とのこと。このタイミングでテキストを購入するとは、昔の大晦日の商人のようだ。
生協では、注文した本で、書類が積もるなどして代金を支払い損ねたものを払いに行く。氏名欄に「楷書で」と注記がある。雑な人がとくに年配に多いのだろう。私もその一人になってきた。「楷」は、手書き重視もうたった、(改定)常用漢字表に採用され、正式にもふりがなが不要となっていくはずの字だ。
店の外に置かれた黒板に、若い女性のものと目される筆跡があった。最近、こういう手書きのメディアがまた増えてきた。それを写真を撮りながら、「風」が略字になっていることに気付く。中は点1つでは「凡」と衝突してしまう。私もさっき、図書館で「明日香川」「明日香風」と、たまたまメモしたときの字体であることに気付いたのは後のことだった。かつては看板にもよく見られたこの略字は、だいぶ淘汰されてきた。筆記機会も筆記を見る機会も減少していることと、漢字字体への意識が固定化(硬直化?)してきていることの表れではなかろうか。今でも「風」は、ときおりこの字体が手書きされており、受け継がれていることが分かる。中が狭く、もともとの構成が「凡 + 虫」だという意識もほぼ失われたことで、意識の上で「記号」化し、かつ衝突が起こりにくい形と文脈を持つことが要因であろう。これは、点画を間引く類の文字と違って、その元の字体として認知させようとするものではない。
合わせて、生協で鉛筆削りを探すが、見つからない。前にもこういうことがあった。店員さんも見つけられず、やっと別の人が教えてくれた。数ある文具の品揃えの中でも、鉛筆削りは3種類しかない。前は1つだけだった。
何種類かのボールペンをしゃがんでずっと試し書きしている女子学生がいた。試し書き用の長い紙が準備してある。ここには、たいていグルグルとした横長の線が書かれる。全方位からのインクの出方が分かる。筆ペンならば、払いが試し書きされたりもする。どうしてこういう傾向が生まれるのだろうか。やはり、筆記具の特性や使用目的によるのだろう。また、先人が書き残した筆跡を見て、それを模倣することで、グルグルとした線が継承されているのかもしれない。文字では、思いが残って恥ずかしい。まして個人情報と呼ばれるものなどは、危ういかもしれない。
グルグルなど、この試し書きの形状にも、落書き以上の意味がありそうに思えてくる。個性や国民性が出たりはしないだろうか。その前に、日本では、バネのような形は、下から書き始めるのと上から書き始めるのと、いずれが通例なのだろうか。
生協から出るときに、さっきの写真は1枚だけしか撮らず、それもピンぼけだったかもしれないと気になり出した。もう一度撮っておこうと近づくと、ちょうど店員がヒョイッと持ち上げて、店内にしまい込み始めた。店も夏休みモードなのだろう。2枚目は撮れずじまいとなった。