漢字の現在

第149回 人名と異体字

筆者:
2011年11月29日

戸籍には、役人(戸籍係)による、楷書ですらない筆跡も残っており、はなはだしくは毛筆の先から墨が垂れて「・」(丶)が加わってこの字体となったという話も複数聞く。届け人の個性がにじみ出たものもある。1枚の戸籍でも、同一人物が欄によって、あるいは親子の間で、名字の字体が異なるというものさえも生じた。よく語られる字体へのこだわりには、後付けのものがけっこう多い。明治初期に起こったこうした些細なできごとは、一般に記録も残されず、伝承もされなかったようだ。そこにも画数が運勢を動かす特別な力を発揮するという大正期から広まった信仰が関わり始めている。

官報にも、その神経質ともいえる区別が再現されている。

    

前回扱ったワタナベ姓は、そもそも何件あるのだろうか。そういう実態を知りたいと願う様々な人々が名簿や電話帳などを駆使して推計を出している。人生を費やした男性もいたという。そうした成果によれば、ワタナベ氏は日本のベストテンの第5位に入っているそうだ。こういうことは、アメリカや中国、韓国などのように、国が集計して発表すれば良いのだろうが、日本にはそういうものを社会や文化を知るための情報として考える風土が育たないままに、個人情報というものを拡大解釈してしまい、今や技術的にも予算的にもさほど問題はないはずだが、統計を出すことさえ敬遠する傾向が生じた。

日本では姓名が何通りあるのかという全体像も、いくら民間の努力があってもサンプリング調査では見えない。誤字・略字を解消しよとする電子化戸籍と、総務省の住民基本台帳との字体上の不整合も、一部で目に付く。悉皆調査があってはじめて漢字コードの検討も可能だったはずであり、そうしていれば自身の姓が、字体レベルではなく字種レベルであっても、コンピューターで打てないというあちこちで起こった悲劇も回避できたように思われる。

字体レベルの話に戻ろう。「齋(斎)藤」「齊(斉)藤」の1字目には、異体字が目立ち、種々の公私のリストには数十種は確認できる。それ以上に存在している。ある近しい齊藤家の歴代の戸籍をご厚意で見せていただいたことがあった。すると、手書きの時代には、当人たちも意識しないうちに、字体が役所内で変転を重ねていたことが分かった。

結婚式の席次表は、前に述べたとおり、とても気をつかって姓名のフォーマルな字体が再現される。「齋」だけでなく、次のような字体が出現している。「崎」「吉」が出てこなかったのが不思議なくらいで、後は現実の縮図とも言える。

      

「絋」という字体も見られたが、年齢から見て、「紘」だったのかもしれない。後者の字を用いた学生は、よく間違って書かれると言っていた。無理もない、よく知っている「広」という字から類推が働くためだ。

披露宴会場をもつ都内の大手ホテルでは、部屋の名前がゴシック体で、「蓬莢」と表示されていた。恐らく「蓬萊」を入力しようとしたときに、「蓬莱」しか候補に出なかった。そこで懸命に探して、「人人」が含まれたものを見つけた、という書字(打字)の過程が浮かんでくる。田舎の旅館(第99回 山梨)とはまた異なる字体の現れ方ではないか。

引き出物には、「壽」の異体字、「御」の異体字が、ともに筆写字形だけに辞書に載りにくい字体が印刷されている。とくに、前者は正月以外で、これほど目にする機会はなく、珍しい。披露宴の出欠の返事に用いられるハガキでも、欠席などの字を「寿」を上から書いて消すという、少しくどくも感じられかねない手法が日本で今でも行われることがある。これも、通常の辞書に載ったことはなさそうだが、日本人が編み出し、一部で喜ばれてきた文字の運用法といえるであろう。そこでは、簡易な字体の「寿」が好まれているようだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。