講演会場では、眠らせてはいけない。睡眠の中で学習した気にさせるようでは、会場にまでわざわざ足を運んでくださった方々に申し訳が立たない。専門を研究する者として興味深いと思う話と、一般の方々が関心を寄せてくださる話とは、必ずしも一致しない。そこを見極めつつ、期待される「正しい漢字のお勉強」といった常識話をうまく裏切ってしまいたい。せっかくなので、伝えたいことを耳だけでなく、心の中にまで届かせたいと努めているが、うまくいっているものだろうか。
「因囚」、「囗」は飾りで、これで「大人」だという女子の話を紹介すると、ア~と納得して下さる。それでは、「悲観的現実主義者」と書いて、これは? 難問のようだ。歌詞で、やはり「おとな」。この面はゆい当て字には、どこでも笑いが響く。「おとな」は、当地の地域文字「咾」からしても、工夫がなされてきたことばだ。
一番前で、熱心にメモを取っている若い女性たちもおいでだ。会場が薄暗くてよく見えないが、イメージしていた年齢層や会場とだいぶ違って広々としている。20代の女子大学生らしき人たちから、80代の地名好きの方までお越しのようだ。
「九州」を「九卅」と筆記経済を求めて簡易化して書くのは、本州内ではだいぶ減っているが、九州ではまだ若い人の間でも一部で健在というと、年配の女性がウンと頷く。ネットでさえも、入力して普通に使われているのは、何が原因なのだろうか。
「生そば(楚者゛による変体仮名)」
読めない方が大人でもけっこういるようだ。3字目を「む」と認識した人も複数いらした。「なまはむ」「いきむ」と読んだ方もいた。この辺りでは、蕎麦屋もあり、この変体仮名を見かけるという方もいたが、こういう字の書かれた看板や暖簾を私は今回見かけなかったし、他の地元の方も「むに点々」などは初めて見た、という。
この変体仮名の「そば」は、沖縄でも見かけないものだった。東京中野で育った私は、そば屋で目にして、少し立ち止まって、「なま・なんとか・む?」と無理矢理に心内で読んで、分かった気になるようにしていた小学生だった。使用の地域差が、住民の理解度を動かすきっかけとなるのだ。
音声言語としては、佐賀は古風な表現が目立つ。下二段活用の残存、古語の伝存など。「ごっかぶい」は御器かぶり、つまりゴキブリの音変化であり、退屈だという意味の「とぜんなか」は、『徒然草』の「徒然」からだ。よくトゼンソウと読んで誤読だと笑われるが、もとは漢語から入ってきた単語だったことは、地元の方も指摘しようとなさった。さらに、この形容詞のカ語尾は、カリ活用の痕跡だといわれている。
「離合(りごう(する))」は、行き違うことで、福岡でも交通などの場面で使っているそうだ。免許を取る際に必須の用語のようで、かっちりした意味の漢語で、方言という意識は乏しく、いわゆる気付かない方言とされるものの一つだ。
当地の名字と地名の話に移る。実地に基づく馴染みと詳しさではとうてい敵うはずもないので、実感をもって納得してもらえるように頑張る。
「椨」
福岡のタブ姓は佐賀では知られていないようだったが、国字の地域文字で「たぶ」と言うとア~と声が漏れた。小地名では、「(木+虫)」という地域文字が福岡、佐賀、長崎、熊本に分布している。
この地の人ならば常識的という読みも、よそから来た者には厳しいものがある。
神代
この姓は、東京では深大寺に神代植物公園があるためか、ジンダイと読まれがちだが、「くましろ」だそうだ。
地名では、
○○小路
が「こうじ」ではなく、「くうじ」となる。これは、かつて中央語にもあった連続する母音の口の形(開合)の区別が語形を変えて体系的に伝わっているものだ。「古語は方言に残る」という命題の変化球のような一つの実例である。