漢字の現在

第209回 残っている「はけ」の数々

筆者:
2012年8月7日

「岾」を訪ねた後、結局、講演会場には間に合った。職員の方々が小著の注文まで受け付けて下さっている。準備をして下さった編集の方々と合わせて、改めて感謝の気持ちでいっぱいになる。控え室では、いただいた新たな資料と、先ほど得たばかりの写真との照合までできた。「岾野」という地名も狭いがたしかにあった。そして、江戸時代末期の万延2年の石碑に「岾の神」とあるという。さっきの神社で、取り急ぎ撮った写真を見直す。写ってくれていた。「岵の神」と崩した字ではっきりと彫り込まれていた。「古」と「占」とで筆順が共通する書法があったことも示唆的だ。たとえば石偏の「砧」も、地名としては東京を除けば非常に稀なのだが、今よりは漢文だけでなく日常語の普通名詞として、知られた字だったのだろう。翻刻は概して伝わりやすくありがたいが、やはり解釈や現代人への配慮、注釈意識、活字の制約が加わっていて、字体などの面で怖い。原典を見ないと危うい。

岵の神

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そういえばその神社でも、大きな鈴の後ろの額には、その漢字「岵」で書かれていた。さらに『郡村史』でも同様に小アザを作ると資料にある。日本人は、往々にして漢字を会意風に見てしまう。象形風に見立てることさえもある。まだ確証ではないが、「岵」由来説に少し自信が深まってきた。そして信仰の対象に、ハケがなっていたのだ。

後に、八潮市の垳の集会所で会が持たれたときに、このハケについて、同好の士がおいでになることを知り、大いに喜んだ。

隣の入間や狭山、川越でも「岾」が小地名に残っている。当地には、カタカナの「ハケ」のほか、「(山+彦)」で「ゲン」と読ませるところで、「土地の古老」は「はけ」と呼んでいるという地も存する。それを記録してくれている『所沢市史 地誌編』もすでに刊行からだいぶ経っているのだが、伝承は続いているのだろうか。


「兀」、捨て仮名付きの「兀ヶ」も用いられているが、「(山+兀)」と人間とは区別したような箇所もある。川が流れる起伏に富む武蔵野には、断崖や傾斜地が大小様々ある。大字クラスの求心力を持った「はけ」地名が近辺になかったことが、標準的な表記を確定させず、この多様性を生み出したのだろう。さらに、狭山や川越まで行くと、「(土+赤)」という、別の造字使用地区となっていく。これは、千葉の小アザで「ヘナ」と読ませるものとは衝突しただけであろうが、指す物質自体は同じ関東ローム層の赤土なのであろう。実は東京都内の「赤坂」だって、ロームという点では同じものを指していたのだろう。

そして赤坂という地名は、関東以外にも存在している。次の地は、活気あるイメージと結びついた都会の地名も、元は一地方の地名に過ぎなかったことを暗示する。

 福島県 東白川郡鮫川村 大字赤坂中野 字新宿

大岡昇平の小説の『武蔵野夫人』では、「はけ」は仮名表記だった。水はけと関連させる解釈も聞かれる。神奈川の金沢八景だって、江戸百景などのようだが元は「はけ」で、江戸時代に漢字が飾られ、実際に漢字が要因となって勝景地が選ばれ出したと聞く。ことばだけでなく、表記が現実を変動させる一つの実例のようだ。都内では荒川区立「峡田小学校」もある(第九まであるようだ)。「羽毛田」などの姓も、実は同一のものだったのではなかろうか。

「清むと濁るで大違い」などという俗謡もあるが、「はげ」と濁る地もあり、「(山+亥)の湯」(熊本県)など、別の字も用いられていて一層バリエーションに富む。各地に広がる「ほき」「ぼけ」(大歩危小歩危も同様)など、俚言というべきか訛語というべきか、それらも同類だと地名研究では捉えられている。

こうして、地元での最新の成果も、講演では話に盛り込むことができた。オーバーしてしまった終了後でも、漢字の疑問をいろいろな方が尋ねて下さる。漢字はもともと人を悩ますものであってはいけないはずだと思っている。娘さんが私に大学で習った、というお母さんもいらした。もう一人のお嬢さんとお父さんは、別に模擬講義を受けられたそうで、後は私がと、その下の小学5年生のお子さんの宿題に関する質問を携えて、お越し下さったとのことだった。奇遇にも一家総出で、順々にご家族に触れることになった。いろいろなメディアをきちんと押さえていらっしゃる。同じ話がなかったか、ひやひやするも、ありがたいことだと敬服した。

その会では、発見があった。参加して下さった皆さんに、「雰囲気」について発音してもらった。はっきりと「ふんいき」、2回言ってもらって、いずれもそうだった。定年(停年)でリタイアされた方が多く、60代から70代くらいが平均となるそうだ。生粋の地元の方は案外少ないとのことだ。

若年層では、一度目は「ふんいき」と言うも、どこか普段使いの語調ではなく、音が切れるような無理な感じが漂う。二度目に、普段通りで、と言うと、「ふんいき」と「ふいんき」、さらに「ふういき」「ふいいき」風のあいまいな鼻音交じりの発音などが交じり合う。漢字を習って、発音が「矯正」される人がいる。一方、発音に合わせて漢字を「雰因気」「不陰気」などと変える人もいる。若年層に顕著な発音が、個人表記を生む。若年層の位相表記と位置づけられそうだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。