タクシーの中で尋ねてみる。
「おおはけ」の「はけ」って漢字ではどう書きますか?
指で、「帖」と書いて「ちょうめんのちょう」と教えてくれる。現地の教育委員会の方も、文化財などの関係でその字を見て、「帖」と覚えていたと、教えて下さった。なるほど、場所は離れているが、『国土行政区画総覧』調査で懐かしい、京都の「広岾町」「広帖町」(ひろやまちょう・こうちょうちょう)と一緒の揺れだ。そもそもこの地名のお陰で、JIS第2水準に入ったのがこの「岾」だ(なお、京都のその地の探訪調査を私がしたという誤伝による記述を読んだことがあったため、岩波新書に誤解である由を明記した)。所沢辺りの「はけ」は、京都の恩恵を被ったわけだ。しかもこちらでは住民もいる。
車内のカーナビでも「大帖」と出ていた。あちこちで、既知の字に引っ張られてしまっている。
カーナビに地名を入れてくれる。「おう」と打って、出ないともいうので、「おお」と打ってもらうと工場も出てきた。そこはきちんと「大岾」と表示された。さすがJIS第2水準漢字だ。ただ、繰り返しになるが、これは京都の地名だけから採用された字である。運転士さんの頼る道路地図でも、ナール体で「大岾」とあった。
稲荷(神)社、自治会館、バス停と、大岾の実際に生きて使われている写真を撮る。ネットでは、やはり「帖」とも入力されている。断崖を意味するハケの語だが、その地名の由来とともにすでに運転士さんもご存じなかった。崖らしきものも、その辺りにはないとのことだった。方言(俚言)のまま死語となろうとしている。化石語化して地名に残っても、字義も字源も明確でないため、一般性の高い「帖」に変わるのも、常用漢字ではないが共通字化する現象に準ずるものであり、地元の人々の認識の移ろいによる自然の成り行きなのであろう。寂しさは隠せないが、これも一般の変化というものだと、音声言語の例では私もいつも学生たちに語っている。
その先にその名を負う会社もあったので、そこまで行って看板を撮れた。Googleマップで見ておいたが、やはりこの目で見たかった。社名の書かれた事務室の扉を開けて入ってみる。突然の怪しげな訪問者にも、筆字風の「大岾」を胸に刺繍した作業着を着た一人が訝らずに教えてくれた。ここは元は「南永井村」で、(「岾野」と書いて)「はけの」と言ったらしいとのこと、これは土地に詳しいあの運転士さんも知らないことで、この方は地元の娘さんなのだろう。「大岾」自体が昔の地名だそうだ。それから社名が付いたのかどうかは古いことなので分からない、と奥の女性が言う。
「岾」は、実は朝鮮半島の古書に出る朝鮮の国字でもある。「チョム」(峠)を意味する形声文字だ。しかし、日本の「はけ」のこの字は、私は漢字の「岵」(コ)が変化したものでは、と推測していた(『日本の漢字』参照)。『詩経』の「岵」(チョクコ)で有名なこの字には「はげやま」という字義がある。たまたま中国人留学生たちに聞いてみたら、この語も字も知らないとのこと。手持ちの中国語の電子辞書を引くと、草木が茂った山という、一つの解釈しか載っていないという。
その「はげ」や「やま」を、埼玉や京都の人々がそれぞれ利用したものではなかろうか。私も、地名の漢字を地域別に分類して秩序付けたり、字体の部首・画数や読み方の順に分けて体系化を目指そうとしたりするのだが、そうすると分厚いカード集や、一見綺麗な表、データベースには仕上がる。しかし、表が大きくなればなるほどに、逆に個々の間接的な連関を見失わせる結果になりかねない。こういう脈絡付けは、意外と風呂の中や、寝入り際のふとんの中でできることがある。
「はげ」ではなく「はけ」なので「古」を少し削った、なんていわゆる削意文字のような行為もなくはなかったのでは、と思えてくる。
関東平野も広大な地が平坦ではありえない。その高台に滝の城(じょう)があったという話も聞いていたが、その下と接する崖などは、話に少し聞けて昔の写真を見ることができただけで、見て回るゆとりはもうなかった。山のように木の茂ったところはいくつもあったが、平地を断ち切る崖線がいくつも走る武蔵野台地にある「ハケ」の一つとしての地形も、見ておきたかった。
今回は手順をふんで、文献に加えてネットでもあらあら下調べをしていた。その時には、とある寺が所在することになっていた。地元の方々はご存じない、いや存在していないと断言する。地図上の場所かどうかはっきりはしないが、墓だけは確かにあった。ほかのところにも墓石を見かけた。この地では市川という姓が多いようで、聞くと実際にそうなのだそうだ。