暮れの銀座は久しぶりだ。仕事を手伝ってもらっていた卒業生たちとちょっと豪華なお昼を食べる。三省堂の『新明解国語辞典』の広告で、私の名前を見かけたという元学生も、今は公立高校の立派な国語の教員だ。
今日は、結婚された教え子のお祝いの会で、こういうおめでたい出来事があると、皆と再び会えるので、嬉しさもひとしおだ。ためらっていると、皆ビールを選び始める。昼間から、私もつい頼んでしまう。それに引き替え、ビールは飲めないという成人の学生が、男子を含めて増えてきたような気がする。
このオシャレでちょっと気取った銀座も、地理的には間違いなく下町である。江戸の文字や表記が残っているのだ。
鮨
やはり、いくつも目に飛び込んでくる。さすが江戸前の面目躍如といえる。「鮓」は見かけなかった。
これも普通に使われている。関東に優勢な変体仮名で、看板だけでなく、暖簾、箸袋などにも見られる。ただ量販型の暖簾も売られているように、ほぼ形式化してしまっていて、ただの雰囲気作りを助けるための習慣となっている。学生たちは、何も読めないまま、その分からない字の書かれた店に入ることがあるそうだ(何か分からないので入らないという無粋な声もないではない)。変体仮名としての形はだいぶ崩れてしまっていても、伝統あるお店らしいという風情だけは感じられる。日本人はイメージに弱い。「鳥」も、焼き鳥など食べ物となると絵に近いデザイン文字となっていることは、銀座でも確かめられた(とりにくを「鶏肉」とは書くようになっても、なぜか「焼き鶏」「焼鶏」とはほとんど書かない)。
まつ毛
看板にある。ほかでも普通に見かける。しかし、ATOK2011では意外にも変換候補としては出なかった。出るのは「睫、睫毛、マツゲ」。一般には現在では「まつ毛」と書かれそうだ。しかし、大学生たちの間では、なんと「まつげ」が圧倒的だった。手書きでも電子機器でも、表外字がどうこうということとは別に、「毛」という字が醸しだすマイナスのイメージを避けている、とほとんどの人が言うのだ。とくに女子に、そういう意見が明確に現れるのだが、「まゆげ」くらいから、自身のその生え方によっても価値観が異なるようで、「まつげ」と違ってこっちは「まゆ毛」、いや「眉毛」だ、という微妙な揺れが出てくる。
銀座の界隈では、「GINZA」というローマ字も時折見かけた。秋葉原の「AKIHABARA」などと異なり、必ずしも外国人向けの多言語を目指したものでもない。なんだか風景とよく似合うのは、新旧がマッチした街だからなのであろう。「横浜」の「YOKOHAMA」にもそれはいえそうだが、あちらには「横濱」という旧字体による表記まで健在である。
日頃の憂さを忘れる師走の日曜日の一時の午餐と歓談、そして店外の光景のお陰で、すっかり過去に時間が戻った半日となった。