漢字の現在

第217回 銀座は「鮨」

筆者:
2012年9月4日

暮れの銀座は久しぶりだ。仕事を手伝ってもらっていた卒業生たちとちょっと豪華なお昼を食べる。三省堂の『新明解国語辞典』の広告で、私の名前を見かけたという元学生も、今は公立高校の立派な国語の教員だ。

今日は、結婚された教え子のお祝いの会で、こういうおめでたい出来事があると、皆と再び会えるので、嬉しさもひとしおだ。ためらっていると、皆ビールを選び始める。昼間から、私もつい頼んでしまう。それに引き替え、ビールは飲めないという成人の学生が、男子を含めて増えてきたような気がする。

このオシャレでちょっと気取った銀座も、地理的には間違いなく下町である。江戸の文字や表記が残っているのだ。

 鮨

やはり、いくつも目に飛び込んでくる。さすが江戸前の面目躍如といえる。「鮓」は見かけなかった。

鮨 銀座

【鮨 銀座】

 (楚者゛)(楚者゛)

これも普通に使われている。関東に優勢な変体仮名で、看板だけでなく、暖簾、箸袋などにも見られる。ただ量販型の暖簾も売られているように、ほぼ形式化してしまっていて、ただの雰囲気作りを助けるための習慣となっている。学生たちは、何も読めないまま、その分からない字の書かれた店に入ることがあるそうだ(何か分からないので入らないという無粋な声もないではない)。変体仮名としての形はだいぶ崩れてしまっていても、伝統あるお店らしいという風情だけは感じられる。日本人はイメージに弱い。「鳥」も、焼き鳥など食べ物となると絵に近いデザイン文字となっていることは、銀座でも確かめられた(とりにくを「鶏肉」とは書くようになっても、なぜか「焼き鶏」「焼鶏」とはほとんど書かない)。

銀座 善光寺そば

(クリックで周辺も拡大表示)

【銀座 善光寺そば】

 まつ毛

看板にある。ほかでも普通に見かける。しかし、ATOK2011では意外にも変換候補としては出なかった。出るのは「睫、睫毛、マツゲ」。一般には現在では「まつ毛」と書かれそうだ。しかし、大学生たちの間では、なんと「まつげ」が圧倒的だった。手書きでも電子機器でも、表外字がどうこうということとは別に、「毛」という字が醸しだすマイナスのイメージを避けている、とほとんどの人が言うのだ。とくに女子に、そういう意見が明確に現れるのだが、「まゆげ」くらいから、自身のその生え方によっても価値観が異なるようで、「まつげ」と違ってこっちは「まゆ毛」、いや「眉毛」だ、という微妙な揺れが出てくる。

銀座の界隈では、「GINZA」というローマ字も時折見かけた。秋葉原の「AKIHABARA」などと異なり、必ずしも外国人向けの多言語を目指したものでもない。なんだか風景とよく似合うのは、新旧がマッチした街だからなのであろう。「横浜」の「YOKOHAMA」にもそれはいえそうだが、あちらには「横濱」という旧字体による表記まで健在である。

日頃の憂さを忘れる師走の日曜日の一時の午餐と歓談、そして店外の光景のお陰で、すっかり過去に時間が戻った半日となった。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。