「中国時間」というものは、かつて学生時代を過ごした文学部での「中文時間」で、なんとなく把握していた。「沖縄時間」など、地域によって約束時刻の捉え方や時の流れの感じ方に差がある。が、会議の時刻となって、急に人が集まってきたと部屋に電話が入る。秘書のような仕事まで買ってでてくれる中国生まれの教え子なしでは、やはり中国は苦しい。いろいろな意味でのアウェイにおいてありがたいのだが、本業があるとのことで最終日まではいてもらえない。この研究会では、150人くらいの前で話す。日本人は会場に私だけ、フランス人もお1人いたが、中国文化にすっかり溶け込んでいる。
私も最初くらいは中国語で、と念のため原稿をチェックしてもらう。時節柄、礼儀だけはしっかりと表現しようと努める。「此」(ツー)はci3と書いておいたら「chi3」(チー)だという。北方の彼女が間違えるはずがないが、そんなはずは、と言うと、電子辞書ではなく、WEBの「百度」で確認してやっと、「ci3でした」と認めてくれた。反り舌音は、はっきり発音しない人がいるから大丈夫とのこと、さすがは大陸的だ。論文集の中にある「趨議」(原文では簡体字)の意味を確認すると、中国人でも知らない人がいて、少し安心した。
壇上で話を始めたその途中に、ワードファイルを会場の画面にも映すようにと接続しに人が上がって来た。確かに中国では、発表では、予稿集とは別に、パワーポイントを準備してきて、会場でもプレゼンテーションのように巧みに使う人が多い。
中国語の対応箇所を、通訳してくれている最中に探して、カーソルで示す。予定外の操作が加わって忙しい。レジュメではなく、参加者は意外にも頭を上げて、前の文字を見ているものなのだ。うまく時間通りにあいさつまで含めて行儀良く終えられた。「時間がないので」というような前置きがときに聞かれる。無論そう言った方が丁寧となる場面では、しかたなく言うが、たいていはそれこそ時間がかかってしまうし、時間が少ないなりにはしおって話せば済むことなので使いたくない。
「串」という字について、日中韓に及ぶ漢字圏の歴史を調べた結果を話した。文献を掘り起こしていくと、この字がクシという意味をもつようになったのは、従来の説の日本とは限らなかったのだ。
今の中国でも、再び「羊肉串」と使っていると示すと、聴衆の真剣な表情からやっと笑みがこぼれる。こういう現実に使われているものは、やはりどこの国でも興味がくすぐられるのだろう。
ちょうど前日に、北京の街なかで見た「串(口+巴)」(串バー)のことも話してみた。社会言語学というほどではないが、路上観察を疎かにすることは惜しい。ことばの研究者であっても、焦点とする専門が違うと、もうそこの理解に差が生じるもので、驚かされることがある。
「串来串去」という店名の看板も見かけた。同音の「穿」の意だという。試しに偵察しに店に入ってみると、炭で焼いたものを手でもって食べさせる店だという。また夜に来る、といって上手に付き添いの人が言ってくれた。
東京でも、焼き鳥も考えてみれば串を使う。おでん(漫画ほどではないが)も、そして牛肉でも串刺しはなくはない。大きい場合は、日本でも「丳」のごとくに2本刺す。